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運のいい人、運の悪い人ー父ー

🍀 まるでドラマのような三代記
🍀 運のいい人、運の悪い人 もくじ


<1章> 薬草などの有用植物の販売 (3)


   「カラマツ」の販売

昭和22年、父にとって最初の仕事は「文化薪」や「紙パルプ材」の販売で、それはモノを売る初めての体験でした。
戦後は、戦災を受けた都市で復興事業が進み、大量の木材が必要とされていたのです。

のちに一級河川となる大井川の「河床材」や「湾岸整備材」を求めている情報から、カラマツ材の販売も手掛けます。
信州の林業の代表は「カラマツ」で、生長が早い植林木で、利用の用途が広いことから、広大に造林されていました。
"東の与志本"といわれるように、地元・与志本林業の勢いは飛ぶ鳥を落とすかのようだった、と父から聴きました。

明治15年の「松方デフレ」の終息後、明治19年頃から、川上村でのカラマツの育苗と販売拡大が進められます。
しかし、昭和28年に苗木の大暴落などがあり、川上村周辺は高原野菜の生産が急速に拡大していきます。

歴史は、記憶と遺された資料で伝えられます。
カラマツの育苗技術を開発したひとりの孫に当たる知人に訊ねると、残念なことに残された遺品は処分してしまい、当時の資料は全くないそうです。
また、戦後の戦災復興事業において、河川についてはあまり調べられていないようで、大井川で信州のカラマツが使われた記録があるかは不明です。

私の記憶にある話は、当時、南佐久郡小海町からカラマツの丸太を積んで運ぶ途中、父母が同乗した大型トラックが横転したというもの。
カラマツは、数回ある"父の命拾い体験"とつながります。                       


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