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国策と生きた技術者 ー祖父ー

🍀 まるでドラマのような三代記               
🍀 国策と生きた技術者 ー祖父ー  もくじ


<1章>朝鮮総督府時代 (3)


     日満電話建設課への異動

祖父の履歴書を見ると、昭和11年末の記載から昭和14年までがすっぽり抜けています。
昭和15年に退官し、国際電気通信株式会社京城支社工務課長に任命されていますが、昭和11年に工務局勤務になり、「日満電話建設課詰ヲ命ス」からの記載がなく、退官前の昭和14年の一年は、様々な昇級内容が記されています。
恐らく、日満電話建設に関わっていた期間と思われます。

日本は、昭和5年から国産ケーブルの長距離重信装荷ケーブル工事に取り組みます。日本と満洲国を結ぶ電信電話設備工事です。
昭和6年(1931)に満洲事変が勃発し、翌年は満洲国が建国されるという時期で、日本と満洲国を広大に結ぶ電信電話網を必要としていたのでしょう。
当初、満洲国の8割は中国人だったそうですが、日本はその後、国策として満洲国への満洲開拓団を募ります。
農民の移民は、①治安維持 ②対ソ防衛・食糧確保 ③日本農村の過剰人口対策のために計画されたそうです。

昭和7年に「無装荷ケーブル方式」の実験がはじまり、昭和11年には日満間無装荷ケーブルの先行になる下関海峡20㎞の海底ケーブルが布設されます。
この頃、プロジェクトに祖父も加わり、昭和15年には世界初3000㎞の無装荷ケーブルが東京ー新京間を結び、長距離電話は開通しました。

700×400×200mm 重い!

祖父の遺品に、大きくて古い皮のスーツケースがありました。
ごっつい姿カタチは見るからに当時のもので、出張や勤務地への移動にこのずっしり重いカバンにさらに荷物を詰め込んで持ち歩いていたのだろうかと思いが巡ります。
履歴書に並ぶ報奨の記載からは、国策としての任務に真摯に取り組み、全うしていた姿が透けて見えます。
"国策"というチカラは、今も昔も大きなものです。


 👉 日満長距離無装荷ケーブルの施設


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