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ピノキオの子猫、フィガロの生みの親|エリック・ラーソンの軌跡

ディズニーアニメーター、ナイン・オールド・メンのエリック・ラーソンが担当したキャラクターとシーンを紹介します。

・「白雪姫」の動物達のシーンいくつか

・「ピノキオ」のゼペットじいさんの飼い猫フィガロ

・「ファンタジア」の「田園交響曲」のペガサス

・「バンビ」のフクロウ

・「三人の騎士」のアラクアン・バード

・「ふしぎの国のアリス」のイモムシ

・「ピーターパン」のロンドンからネバーランドの飛行のシーン

・「わんわん物語」のペグ

・「眠れる森の美女」のオーロラ姫達が森で歌って踊るシーン

エリック・ラーソンはディズニーアニメーションの愛らしくて小動物のシーンを主に担当していました。
エリックはアニメーションキャラクターを人間として本当に大切にしていたアニメーターです。
「ピノキオ」のフィガロは彼の4歳の若い甥をモデルにしたそうです。

以下からはエリック・ラーソンがディズニーアニメーターになるまでと、アニメーター以外での活躍をまとめてみました。



ディズニーアニメーターになるまで

両親がデンマーク人でキリスト教徒

エリック・ラーソンは1905年9月3日ユタ州クリーブランドに生まれました。両親共にデンマーク人でキリスト教徒でモルモン教会に属していました。
エリックも生涯を通じてモルモン教の集会に出席していました。
牧場生まれの牧場育ちで1915年の夏の終わりにソルトレイクシティに引越しをしました。

高校生でアートディレクターに

エリックはソルトレイクシティで初等教育を終え、聖徒大学の高等学校に通い、そこで芸術の才能を開花させました。
10歳頃から絵を描き、絵の通信教育を受けたこともあり高校時代は卒業アルバムの製作に4年間取り組み最終学年にはアートディレクターになりました。大学ではユタ大学のジャーナリズムを専攻し大学のユーモア雑誌「ユーモレイク」に漫画を描いていました。

6年間A&Eでアートディレクターを勤める

さらにコマーシャルA&Eからの推薦でフェニックス大学の年鑑のイラストを描いていました。

またロサンゼルスでの仕事もオファーされそのままA&Eでアートディレクターとして6年近く働き、自分の時間に多数の油彩画、水彩画、木版画を製作しました。

ラジオ現場での白雪姫の脚本家との出会いからディズニーアニメーターへ

エリックはより充実した仕事を求め、ラジオで原稿を書く仕事も行います。
フィリピンのアンヘレスのラジオ局KHJにエリックが派遣され、後に白雪姫の脚本家となるリチャード・クリードン氏と会いアドバイスを求めました。
そこでエリックはリチャードにディズニーに行くことを薦められたのです。
エリックはフリーランスで生活ができるほど金銭的に余裕がありましたがリチャードの説得に負けてしまいます。
リチャードはエリックにクリエイティブなスタッフが必要であることを説明していたのです。
エリックはリチャードに過去のイラストサンプルを渡し、リチャードはディズニー・スタジオのマネージャーでもあり、監督でもあるベン・シャープスティーンに渡しました。
エリックの絵に感銘を受けたシャープスティーンはエリックを中間部門の責任者のところに連れて行きトライアウトを受けさせました。
そしてエリックは1933年6月1日にディズニーに入社しました。

アニメーター以外の活躍

アニメーターの人材発掘部門の責任者に

1966年ウォルトが亡くなってからは、エリックは人材発掘部門の責任者になり、ディズニーの研修プログラムを作成しました。
エリックもウォルトに忠誠を尽くし続けたアニメーターの一人。
組織の中核であるアニメーション部門を構築しようと美術学校や大学を訪問し、アーティストを募集していることを宣伝しました。
トライアウト期間でラーソンは研修生に個別で白黒テストフィルムについて一対一でアドバイスもしていました。



■引用元

・The Disney wiki Friend Owl
https://disney.fandom.com/wiki/Friend_Ow


■参考文献
・Walt Disney's Nine Old Men and the Art of Animation p.54- p.80


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