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「三人の騎士」の主題歌アニメーター|ウォード・キンボールの軌跡

ディズニーアニメーター、ナイン・オールド・メンのウォード・キンボールが担当したキャラクターとシーンを紹介します。

・短編シリー・シンフォニー「うさぎとかめ」のうさぎが駆け抜けた後に花が舞い散ったり看板がひっくり返ったりするシーン

・短編シリー・シンフォニー「森の音楽会」のソロダンサーとジャズミュージシャン

・長編「白雪姫」の白雪姫が寝ているベットをこびとたちが取り囲むシーン


・長編「ピノキオ」のジミニー・クリケット

・長編「ダンボ」のカラス、ジム・クロウたち

・長編「ファンタジア」の「田園交響曲」のバッカス

・長編「三人の騎士」のパンチート。メキシコ編の主題歌のシーン。

・長編「メロディ・タイム」のペコス・ビル

・長編「シンデレラ」の継母の猫ルシファーとシンデレラの友達のネズミジャック、ガスのシーン

・長編「不思議の国のアリス」のトゥイードル・ディーとトゥイードル・ダム、セイウチと大工、チェシャ猫、マッドハッター、三月うさき

セイウチと大工

・短編「ミッキーマウスとつむじ風」

・短編「リラクタント・ドラゴン」のドラゴン


ウォード・キンボールはナイン・オールド・メンの中で一番ユニークで風刺の効いたキャラクターとアニメーションシーンを生み出したアニメーターです。

出世作は「ピノキオ」のジミニー・クリケットです。

実はウォードは「白雪姫」で自分が作成したシーンが二つカットされたという理由で、「ピノキオ」の制作前にディズニーを辞めることを考えていました。
しかしウォルトはウォードがディズニーを辞めるであろうと予測していた上で、彼にジミニーのアニメーション化の依頼をしたのです。
ウォードはウォルトのジミニークリケットのストーリーに感動しその仕事を引き受けます。
ジミニーが生まれたのもウォルトとウォードのお陰なのです。

そして傑作は何と言っても「三人の騎士」の主題歌のシーンです
彼自身も「アニメーションのルールをすべて破り、想像力を大いに働かせたので、今でも自分がやった良いこと、大きなことの一つだと思っている」と語っています。

あのタイトルソングのシーケンスを観たらいかにウォードのアニメーションがショービジネス的で楽しいものかがわかります。

「三人の騎士」は他のディズニー作品と比べてかなり逸脱しています。
アバンギャルドでサイケデリックですが、アニメーションと実写を組み合わせる技術に圧巻させられるので一度観てみることをお勧めします。



ディズニーアニメーターになるまで

マチネ劇場をよく観ていた少年時代

ウォード・クルラス・キンボールは1914年3月4日にミネソタ州ミネアポリスで生まれました。
ウォードは家庭が経済的基盤が弱く移動型民族みたいな生活を送っていて、大学生になるまでに合計22の異なる学校に通っていました。
ウォードはよくマチネ・ボードヴィル・ショー劇場を観ていて、ここで劇場を観ていた経験が彼のアニメーションにショービジネス的なアプローチを植え付けたのです。

11歳から美術を習い、サンタバーバラ芸術学校に入学

11歳でW.L.エヴァンス漫画学校に入学。
高校2年生の時、ウォードはフェデラルスクールの広告を目にして、祖母に美術界への志望と熱意を込めた手紙を送り、資金援助をお願いしたのです。
祖母が助けてくれた後は暇を見つけてはずっと連邦学校の美術授業に取り組みます。
1912年の秋サンタバーバラ芸術学校に入学しました。

「三匹の子ぶた」に刺激されてディズニーアニメーターに

ウォードはシリー・シンフォニーの「三匹のこぶた」を観て衝撃を受けます。
雑誌でアーティスト募集のディズニーの広告を観てキャリアプランを再考したい誘惑に駆られました。
1934年3月、美術学校のインストラクターからディズニーに応募するよう説得され、ウォードの母親にロサンゼルスのハイペリオンスタジオまで車で連れられて行きます。

ウォードは受付に自分のポートフォリオをドラッグして提出しました。
今までに誰もポートフォリオを持ってきたことがなかった為、その時の受付係は混乱したそうです。
複数のアニメーターがやって来て、ポートフォリオを受け取って保管しようとしましたが、「ガソリンを買い戻すのに十分なお金がないから今日知らせてください」とウォードが泣いて訴えたので、その日にウォードは採用されたのです。
1934年4月1日にディズニーに入社します。

アニメーター以外の活躍

短編アニメーション監督でオスカー二度受賞

アニメーター以外でも、1953年5月28日公開された短編アニメーション「メロディ」と同年の11月10日公開された短編アニメーション「プカドン交響楽」の監督も務めていました。

また1954年にディズニーランドの宇宙旅行のテレビ番組「マム・スペース」でシリーズの製作と監督を担当。

そして1969年短編アニメーション「鳥はタフなり」で監督を務め、この作品でもアカデミー短編アニメ賞を受賞します。

ナイン・オールド・メンの中でも独立して映画を製作したことがあるのはウォード・キンボールただ一人。
彼はウォルトも天才と認める偉大なアーティストでした。

機関車マニアでトロンボーン奏者

またウォードは機関車マニアであり、ジャズ奏者でもありました。
ウォルトが出席したシカゴ鉄道博覧会にウォードも同行したり、スタジオアニメーターとジャズバンド、「ファイヤーハウス ファイブ プラス 2」を組んでトロンボーンを演奏していました。




■引用元

■参考文献
・Walt Disney's Nine Old Men and the Art of Animation p.82-p.122


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