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雑感・なにかを崇拝するということ

(ほんとうにまとまりなく思考を垂れ流したので、あとで消すかもしれないですが、いったん公開します)

わたしはずーっと無宗教で、いわゆる宗教というものを信じたことがないためか、盲目的に宗教にはまる人の話などを聞くと「へえー……」とちょっと引いた目で見てしまう一方、なんというか「信じられる神様がいる」状態そのものに対しては、ちょっとうらやましいな、と思うことがあったりする。

ようするに、他の人が「神とはこういう存在で、これこれこういう文脈で神なんですよ~」という、与えられたストーリーを素直に信じる力がある、つまりその、全面的になにかを、あるいはだれかを「信じる力がある」ところが、なんか、うらやましい。

要は、わたしはどうも、人の敷いたレールに乗っかる感じがイヤ、というか、怖いだけなのかもしれない。

宗教のはなしからは逸れるけど、「生きている人を崇拝する」ということはけっこう危険なことだと思っている。

人というのは生きているから、生きているあいだにそのありようが移り変わっていくのは自然なことで、だから仮に「この人のことを崇拝する」と決めたとしても状況の移り変わりと共に「あれ、なんか最近わたしが思ってた○○さんと違うな」、とか「このひと前に言ってたことと違う、矛盾してる」とか、「わたしが思ってた○○さんはこんなことする人じゃなかった」と思うようなことが起きるのがむしろ自然で、なんかこう「崇拝」のせいで、いちいち心をざわつかせたくないな、みたいな。

これが、崇拝の対象がひとではなく「もの」だったとしても結局は同じで、「もの」が、自分の外側にあるものである以上、つまり、自分以外の他者が作り出したものである以上、結局は同じことになるんじゃないかと思っている。つまりなにか企業が問題を起こしたときなんかに「あの組織は信頼性が高いと思っていたのにがっかりした」みたいなのもそうだし。

結局人がやっていることなんだから、自分にとって完璧な他者なんて存在するわけがないのと同様に、自分の理想通りのものなんて存在し得ないのだと思っている。その他者から得たものの足りなさを補うために、ひとは自分でなにかを生み出したり創作したり試行錯誤したりしたくなるのではないかしら。

わたしには、いわゆる「師匠」という人がいないこととも関連する話かもしれない。

いままでお世話になった人はたくさんいる。仕事を教えてもらった人、憧れのひと、大事なことを教えてもらった人、影響を受けた人。では、わたしには「その存在を絶対視している唯一の師匠」とよべる存在の人はいるか? と問われたら、いない。完璧な人はいないから、できるだけたくさんの先生のいいところをちょっとずつ参考にしつつ、自分なりのやり方を見つけていくのが建設的かなあと思っている。

一見、もっともらしいことを言っているようにも思うけれど、世界に対する信頼感、とか、自分以外のものを信じたり受け入れたりする力が弱いだけなのかもしれない。自分以外ものを、手放しで信じる能力。

他者に対する信じる心が弱い代わりに、わたしの中に、うっすらとしたイメージで「もし神とか天国と呼べる存在があるならこんなかんじかな」と思い描いているイメージというのは、なんとなくあったりする。言語化すると消えてしまうような気がするから説明はしないけれど、自分の内面にしか存在しない漠然とした希望のようなもの。

目下のところは、目を閉じたときにうっすらと、「ああ、神ってこんな感じかなあ こういういうふうだったらいいなあ」、と思えるような光り輝く穏やかな存在が存在するなら、まあなんとかやっていけるかなあという気がしている。

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