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根拠のある自信はいつか潰れる

こんにちは。佐々木です。

とあるYoutuberの方が「根拠のある自信はいつか潰れる」という話をしていまして、ああ確かにそうかも。なんて腹に落ちてしまいました。

根拠のある自信というのは、例えば「自分は東大生だ」というやつです。東大に合格できたらきっと自信がつくのですが、実際に入学してみれば(当たり前ですが)周りは全員東大生なので、「自分は東大生」という自信は潰れることになるでしょう。
あるいは、「若くて美人」ことで自信を持っている女性は、年齢を重ねて外見が崩れた(ように感じた)とき、その自信はどうなってしまうのでしょうか。潰れてしまうかもしれませんね。
そういうふうに「私は⚪︎⚪︎だから自信がある」というような自信の持ち方は、「⚪︎⚪︎だから」の価値を失ってしまったら、もう自信を与える機能は無くなってしまうのでしょう。

私はもともと自信なんてなく、「どうすれば自信をつけられるんだろう?」と考えながら生きてきました。多分それは自分のとっての人生課題なんだろうな、くらいに思っています。そのくらい、自分の心を大部分を占めている、自信って大きなテーマです。

家庭教師をしているのも、生徒さんたちが勉強を通じて自信をつけてもらえたらいいな、勉強って楽しいよね、勉強を通じて達成するって素敵なことだよね!と思ってもらいたいという気持ちがありました。
学生さんたちの勉強への取り組みを見ていたら、勉強きっかけで自信を削がれている子が多いように感じたので・・。

だから、勉強してわかること、できることが増えたり、やりたかったことを実現するための切符を得たりすることで自信を得てほしい、なんて思っていましたし、自分自身もそういう気持ちを持っていたように思います。

でも、ここで「私はこの大学の学生だ」とか「私はこの科目が得意だ」みたいな、「私は⚪︎⚪︎だから」を自信の源泉にしてしまうと、いつか潰れてしまうかもしれないのです。世の中を見渡せば上には上がいるし。もしそんなことを生徒さんに教えているとしたらすごく教育に良くない気がする。

私自信、この「⚪︎⚪︎」の部分をたくさん集めていけば、いつか自信満々な人になれるのではと思っていた部分がありました。
良い大学に入学して、卒業して、仕事して稼いで、実績を積んで、本を出して、ブログのアクセス数を伸ばして、良い相手と結婚して、良い家庭を築いて。
そうやってまるでパワプロみたく能力とかステータスを増やしていけば、いつかすごい選手が出来上がり、同時に自信たっぷりな自分になれるみたいに心のどこかで思っていたかもしれないです。(ちなみに私はパワプロよりもパワポケ派です。)

だとしたら、自分が標榜してきた「勉強を通じて自信をつける」って一体なんなんだろう?なんて、改めて考えてみたくなりました。

多分そういうことじゃないんだろうな。
「私は⚪︎⚪︎だから」自信を持てるんじゃなくて、そこまでに至れるくらい頑張れたから、次もきっといけるっしょとか、そういうもっとエッセンシャルな部分なのかもしれません。

何かを成し遂げたその「肩書き」や「成果」そのものではなく、そこに至ることができた自分を好きになる気持ちだったり、またその成功を再現したり転用できるだろうという見込みみたいなことが重要なのかもしれない。

すごく月並みな言葉にすると、「他者の評価より自己評価」の世界なんだろうな。結局自分がどれだけ自分を受け入れているか。自分最高!って思えるかどうか。それと肩書きや成果ってリンクするように見えてリンクしない。
自分がどれだけ自分を大切にできるのか。

これは似て非なることだから、私自身も勘違いしないようにしないといけないし、生徒さんたちに伝えるときもきちんと伝えなきゃ。なんて思ったりします。

何歳になっても自信って難しいなー。

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