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旅するこころ -気散じ-

繰り返される毎日に疲れ果て、都会の華やかさも喧騒に変わっていた。アパートで一人心が沈む夜。ふと顔が浮かび送ったメールへの返信は一文だけ。 "沖縄の海はいいぞ、あんたも来たら" 翌日には、空を飛び海を渡って、波照間島まで来ていた。ほわっと熱い空気、何処にいても心地よく聞こえてくる波の音、山羊の声。私の知らない世界。 学生と先生という関係ではあったが、当時から何だかとても気が合った。取留めのない事から生きる意味についてまで、思いつくまま語り合った時間は、この上なく多彩だった

笑お-已己巳己 いこみき-

写真は飾ったままにしておいた。 幼稚園の行き帰りも、おやつを買いに行く時も、二人で歩いた浜辺。いつも少し寂しげな海の色。ゾウさん模様のビキニを着てしかめっ面をしている私と、パラソルの下で微笑む母。 我が家では恒例の、キャンプ場。どこまで見上げても深い緑。父と兄、こわばった顔をしている私と、にこにこしている母。 そういえばと、見返して思い出す。女の子らしい恰好が嫌いだったし、木々から聞こえる蝉の声が怖かった。 でも、母が笑っていたから。どんなことも包みこんで、笑って、楽

いのちが生まれる時に -萌芽-

春が待ち遠しい北海道。田畑が広がる我が家の庭先。ちらちらと舞う雪の行方を、福寿草の蕾から顔をのぞかせた深黄が見守っている。 出産予定日の前夜に、陣痛は始まった。里帰り出産のため、そばに夫はいない。これから先は一人で頑張るつもりだ。十月十日、お腹の中で共に過ごしてくれた子は、予定日通りにこの世界に出てこようとしている。まっすぐで素直な子だろう。 痛む度、病室で我が子の頑張りを誇らしく思う。 ふと扉が開いて。目を向けると、コートやニット帽にうっすらと雪を乗せたままで笑う母。「

出会った日から *袖摺*

心の中では、ずっと特別で大切な人。 実際に会ったことは、まだ一度もない。 その人は、長い髪に黒ぶち眼鏡、ひげを生やしてラフなTシャツを着ている。星光る夜空の下、わずかな時間、ベンチに座って話をするのが習慣になっていた。仕事の話や家族の話、共通の趣味であるカメラの話などをして一日を穏やかな気持ちで終える。SNS上で作り上げたキャラクター同士での交流であっても、PC越しであっても、人となりは想像できる。素敵な男性だ。 そんな毎日も、自身の生活にお互いが精一杯で疎遠になった期

父のためなら *生一本*

私が幼い頃、父は気持ちの病を抱えていた。生後すぐ冷たくなってしまった姉を、一度しか抱きしめられなかったせいかもしれない。その後、生を受けた兄と私。 家族を養うために這いつくばって仕事をし、疲れた身体でも夜は眠れず、しーんと真っ暗な町を無心で走っていた。命をすり減らしながら生きる父は、団地の高所から姉の住む世界へと飛び立とうとする日もあった。 母はひたすら生一本に、妻として出来ることは何でも真摯に取り入れ実践してきた。あとは、ただ、祈ることしか出来なかった。 父の病につい

じじばば と*睦ぶ*

息子は小学3年生の時に、北海道から引っ越しをした。 ✈ 🌏 ✈ 毎週必ず同じドラマを見て「ババも見てるよね。」いつも2人でソファに座って見ていた、3人のおじさんが世直しをするドラマ。 真っ赤なトマトに砂糖をかけて食べ「ジジも食べてるかな。」家庭菜園での採れたてに、2人でてんさい糖をたっぷりかけて食べた夏。 「あ!ここにもババラーメン売ってる!」ババが作ってくれた、ごく普通のインスタントラーメン。大事に抱えてレジまで運ぶ。 「冬は北海道に帰った方がいいよね?ジジの除雪