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十二月の来訪

  昨夜、十二月が私の家にやってきた。

「十二月はもう終わったんですよ。とっくの昔に一月です」
 私は一月のカレンダーを指して説明した。
「そのカレンダーだって昨日慌てて掛け替えてたでしょう」
 十二月は私が恋していた人の顔をして、ゆっくりと椅子にもたれかかりながら指摘した。
「カレンダーを買うのを忘れていたからです」
「それで昨日買ったんですか?」
「ええ」
「可笑しい。とっくの昔に一月なら、もうカレンダーなど売っているはずがない」
「売っていたんですよ」
「まあ、なんとでもおっしゃい」
 十二月は私が出しもしなかったはずの茶を勝手に飲んでいた。十二月が使っていたカップは、私が棚の奥深くに、もう見ることのないように蔵っておいたカップだった。私のカップの方では冷め切った茶は、その手元でゆらりと湯気を立てていた。私が恋していた人の整った顔で、十二月はその湯気に穏やかに目を細めた。
「そもそも」
 私は昨日壁から外した去年のカレンダーを、玄関口に重ねておいた紙ごみの山から持ってきた。
「十二月自体、もうなくなったじゃありませんか」
 私はフェルメールの絵が配されたカレンダーをめくって見せ、そこには表紙と解説を除いて十一枚のページしかないことを示した。十一月の〈青衣の女〉でカレンダーは終わっている。
「何を言うんです。僕はここにいるのに」
「あなたが間違っているんですよ」
「あなたは僕をいないという。僕は僕がここにいるという。僕が本当にいないなら、あなたは何を「いない」と言っているのですか。間違っているのはあなただ」
 そう言いながら、十二月は私の手からカレンダーを取り上げ、しばらくめくっていたが、にっこり笑って十一月の次のページを掲げて見せた。各月の絵の旧所蔵先と制作年、消失年を載せたページで、十一枚の絵が行儀よく並んでいる。
「十二月だ」
「違いますよ。解説のページです」
「何を言うんですか、よく見て。〈真珠の耳飾りの少女〉のないフェルメールのカレンダーなんて考えられない。そうでしょう」
「それなら三月に出てるでしょう」
「これはメトロポリタンにある〈少女〉です。まったくの別物だ。僕は青いターバンの少女のことを言っている」
「そんな作品は知りません」
「知らないはずがない」
「そもそも、それは解説のページです」私は繰り返した。
 十二月は溜息をついて、私にカレンダーを返した。私はそれをまた紙ごみの山へ持っていった。
「あなたはどうしても十二月をなかったことにしたいんですね」
「ないんですから」
「クリスマスのことはどうなんです」
「クリスマス?」
 私は唐突に、冷凍庫にいつかどこかで買ったシュトーレンが眠っているのを思い出した。まだ蔵った場所にあるだろうか。
「私にクリスマスの話をしないでください」
「ほら、やっぱり知っている。クリスマスはいつですか」
「十二月二十五日、でした」
「ほらね」
「私だって十二月を知らないわけじゃないんです。あった時のことは知っている」
「あったじゃない、あるんです。僕はここにいるんだから。クリスマスは来週ですよ」
 私はしばらくの間、十二月の穏やかな顔を見つめていた。
「今は一月です」
「クリスマスのことを覚えていませんか。あなたたちは皆で、公園に集まって線香花火をしていた。誰かがコンビニでケーキとチキンを買ってきて、アスレチックジムの上でワインを開けた」
「何で知ってるの」
 私の恋していた人の顔は、かつて見るたびに目が離せなくなった、その少し底意地の悪そうで鮮やかな笑顔を浮かべた。「十二月だから」
「あなたは過去から来たの」
「いいえ」
「それなら、どうしてあいつの顔をしているの」
「あの人も今、十二月を生きているんですよ」
「嘘」私は冷えたカップを口に運んだ。もう一滴も残っていなかった。「十二月はなくなったの。初雪も、クリスマスも、大晦日も。あの月は、もうなくなった。皆ももういない」
「大げさな。『皆』もいる。僕だってここにいる」
「いない。いなかった。消失したの。『皆』も消えた」
「覚えているくせに」
「覚えてなんかない。なかったんだから」
 私は壁に掛けた一月のカレンダーを見た。十一月までの、今年一年の日々の羅列が、一列に私を未来へ連れていくのを思い浮かべた。一、二、三、四、五、六、七、八、九、十、十一、一、二、三、四、五、六、七、八、九、十、十一、一、二、三、……数はやがて螺旋を巻いて、どこか下の青く澄み切った色の中へ降りていく。
「十二も月があるなんて、多すぎたから。素数だし、十一のほうがいい」
「素数だから、と言われるとかないませんね」
 背もたれから身を起こし、十二月はゆっくりと立ち上がった。
「来年、また来ますよ」
「一月に?」
「十二月に」
 それから、手に持ったままだったカップを私の前に置いた。机とカップが、鈍く温かい音を立てた。
「このカップは消失していませんから」
 玄関に十二月が向かうのを、私は思わず立って追いかけた。
「待って」
 私の恋していた人と同じ体躯の十二月は、立ち止まってこちらを向いた。ややおどけた、なじみのある、胸を刺すほど懐かしい表情が浮かんでいた。
「あなたが知っている、あの人たちはどうしているの」
「二人とも元気ですよ。あなたにもお元気で、と伝えたがっていましたよ」
 十二月はそのまま、あの悪戯めいた鮮やかな笑顔を浮かべた。意地が悪いのではなく、そういう笑い方なのだ。
 それはもう此の世で見ることはかなわないと思っていた笑顔だった。私の恋していた人とその恋人は、ある年の年末、十二月と一緒に消失したのだ。私を十とひとつの月が繰り返す世界に永遠に残して。
「来年は、土産でも持ってきましょうか。〈真珠の耳飾りの少女〉のポスターなら、きっと見繕って来られますよ」
 私はしばらく考えてから、言った。「いりません。私、三月の絵が好きだから」
「そうですか」

 十二月は玄関を開けて出ていった。私は鍵を閉めて、二つのカップを洗い、電気を消して、冷たいベッドへ、一月の眠りの中へと戻った。


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