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ピンチはチャンス | 落語日記『百年目』

私にとって百年目は上に立つものの宿命と器量が感じられる名作だ、と思う。

話の舞台は昔の商店。店頭で働く丁稚、お店を切り盛りする番頭、そのお店を経営する大旦那といった登場人物。

この番頭さんがとにかく厳しい人という設定で、丁稚たちに一寸の隙もみせず重箱の隅を突くが如く指導する。

そんな頑固・厳格な番頭さんが裏では大の遊び好き。ある花見の季節に仕事を抜け出して舞妓遊びをしているところを大旦那に見られてしまった、というのが主なあらすじ。

この話から私が得た教訓は番頭さんの上に立つものの宿命と大旦那の器量だ。

番頭さんは現代の会社組織で言えば管理職にあたるだろう。管理職はまさにその組織(グループ)が上手く回るようにしなければならない。

人は楽をする方、甘い方を選ぶ習性がある。そりゃ人間だれしも人間楽な方がいいに決まっている。しかし、会社にとっては、その惰性や甘えが悪い方向に働いてしまうこともある。そこを会社に替わって軌道修正するのが管理職の役割なので、時には部下にとっては嫌なことも言わなければいけない、やらなければいけない、といういわゆる管理職の宿命が番頭さんのお店での振る舞い、店を抜け出し番頭という肩書きを脱ぎ捨て遊びに向かう時の高揚、そして大旦那に見つかった時の絶望、といった描写から哀愁と共に漂ってくる。

そしてこの話のクライマックスである大旦那が番頭さんを呼びこの出来事に始末を付ける場面で、上に立つものの器量を学ぶ。

大旦那は最初に遊んでいたことは一切責めない。ただ念の為ということで会社の帳簿を調べたら勘定は完璧であることを確認。仕事をきっちりこなした上で自分の金で遊ぶことに何の罪はないとハッキリ伝える。

その上で、丁稚に対する指導についてはちょっと厳しすぎるんじゃないか、少しは緩めて丁稚たちを労わることも大事だということを説く。そして長年の苦労を労い番頭さんに暖簾分けをさせたいことを打ち明ける、という語り。

フィクションなので当たり前だが、こんな経営者がいたら一生ついていきたくなるような完璧な指導ではないか!と私は感動してしまう。

歳を重ねるにつれ、私はこの話を聞く時の立ち位置が変わっていくことも面白みの一つだと思う。若手の頃は丁稚の立場で、あぁうちで言う番頭は〇〇さんだな、とか。

でも今はどちらかと言うと番頭さんの立ち位置で捉えるようになった。ようやく私も少しは上に立つものの宿命そして哀愁に共感するようになったのかな、と思う。

百年目というのは絶体絶命のピンチに遭遇したことを指す。この話に触れてピンチにあったらそれは人生の転換を向かえるチャンスかも知れないと前向きに捉えられるようになった。そして、絶望に陥った部下に対しては大旦那の器量の心で語りたい。

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