六年生になった初日に、B先生が言った。
「皆さんに、A先生からプレゼントがあります」
「A先生」は、去年の担任の先生だ。髪が少し茶色なのがとても印象的で、触ったら崩れそうなくらい弱い先生だった。
「皆さんの毎日が楽しくなるように、だそうですよ」
そう言いながらB先生は机の上に猫の置物を置いた。猫の毛並みは黒で、ほっそりした体。そして、大きな深い青色の瞳を持っていた。吸い込まれそうなくらい深い青の瞳から僕は目を離せなかった。そう、僕は猫の置物に一瞬で魅了されたのだ。僕はその猫の置物を「ソラ」と名付けることにした。宇宙のように吸い込まれそうな瞳だからだ。

その名前をつける事にクラスメイトは反対しなかった。クラスメイトとは、一年の頃からずっと一緒だ。僕らは中学受験をするから、他の一般クラスではなく、たった十六人の特進クラスに入っている。成績が落ちると、一般クラスに落とされる。それが僕らは無性に嫌で、毎日勉強だけをしていた。楽しみ、なんてものはなかったし、競争相手であるクラスメイトと仲良くなることはなかった。
でも、それは、ソラのおかげで変わった。ソラのことについてクラスメイトと話すようになり、だんだんと普通に話もするようになった。それを楽しいとも思うようになった。委員長なんかは、掃除の時間、ソラの周りだけをぞうきんでごしごし吹いて、ソラの周りは鏡のように光っていた。嫌なこと、悲しいことがあっても、ソラの青く深くきらきらと輝く瞳を見ているうちに気分もすっきりとする。いつも深く青い瞳で前を見ているソラ。絶対に下を向かないソラ。それをうっとりと見ていると、F君に呼ばれた。
「A君、教えてほしいことがあるんだけど」
僕は名残惜しいが瞳から離れ、F君の方へ向かう。
ソラは、いつまでも僕らを見守っていてくれるだろう。だから僕はソラがいなくなることなんて全く考えていなかった。

昼休み。僕はF君としゃべっていた。その時、ガッシャーンと音をたてて何かが砕けたような音がした。音のした方を見ると、Sさんが顔を青くして震えていた。床には黒い破片が飛び散り、青いビー玉が片方だけ、僕の足元にころころと転がってきた。しゃがんでそれを拾う。太陽の光を反射してきらきらと光るそれは、ビー玉ではなく目玉だった。
どういうこと?僕は混乱して頭がぐちゃぐちゃになった。
ソラは砕かれて死んでしまった。
ソラを殺したのはーーSさんだ。
たくさんの憎悪の目がSさんに向けられる。不気味なほどの静寂の中、ソラの瞳は僕の手から滑り落ち、床でことんと跳ねた。

その日から壮絶なSさんへのいじめが始まった。上履きや、教科書を隠されたりするのはマシな方で、委員長にクラスメイト全員の前で小さなミスに対して怒鳴られたり、「殺人犯!」と言われたりした。それを誰も止めようとせず、むしろ積極的にいじめに、いや、制裁に参加していた。僕も止めなかった。だってこれは罰だから。ソラを殺した罰だから。
それはSさんも分かっているようで、「やめてほしい」などとは言わず、黙って下を向いて耐えていた。だからクラスメイト以外にはこのことは伝わらなかったのだろう。

金曜日はソラにヒビや汚れがないかを確認する日だった。ソラに魅了されていた委員長が無理やりそう決めた。当然クラスメイトで反対する人はいなかった。毎週確認して汚れていたらぴかぴかになるまで拭いた。今週も、と僕が立ち上がって後ろを見ると、ソラはいなかった。そこはただ何もない空間だった。ガタリと誰かが立ち上がる音がした。そして僕の横を委員長が通り、Sさんの机の前に立った。多分委員長も、そしてそのほかのクラスメイトもみんな後ろを見たんだろう。そして、ソラのいなくなったということを思い知ってしまったのだろう。夢ではなく本当に。
Sさんの机の前に立った委員長はポケットに手を入れた。取り出したのは、ソラの瞳だった。いつのまにか、取っていたようだ。出した瞳を委員長はSさんの目に入れようとした。びっくりして思いっきりのけぞって倒れたSさんを見て委員長は言った。
「あんたのせいでソラは死んだの」
そして狂ったようににたりと笑って
「だったらあんたがソラになってよ」
またガタリと誰かが立った。いや、誰かじゃなくて僕だった。僕はSさんを押さえつけた。恐怖を顔に浮かべたSさん。でも、仕方ないよね。だって罪を犯したのはSさんなんだから。そしてまた誰かが立った。次々にクラスメイトが立ち上がり、みんなでSさんを押さえつけた。委員長が暴れるSさんに瞳を入れようとした時
「何をやってるんですか!」
だんっと教室の引き戸が空いてB先生が入ってきた。その声で僕はゆっくりと顔を上げた。みんな顔を上げてB先生を見ていた。Sさんだけが涙を浮かべて暴れている。B先生は委員長を押しのけて、Sさんを助けた。B先生がSさんを立たせた。Sさんのワンピースがじんわりと濡れていて、水滴が床にぽとんと落ちていくのがやけにゆっくりと見えた。

周りで学校の先生たちが騒いでいる。
「なんでやったんですか!」
「自分がどんなことをしたのかわかっているんですか!」
そう怒鳴る先生達の顔がだんだんソラの顔に見えてきた。でも、そのソラに瞳はなく、暗い穴が空いていた。僕はふらりと立ち上がり、委員長の持っているソラの瞳をとった。周りの喧騒がぴたりとやむ。誰も何も喋らない中、虫の羽音がよく聞こえた。ぶ〜んぶ〜ん。ひた…ひた…。羽音とともに僕は一歩ずつソラの顔に近づく。僕は腕を上げ、ソラの暗い穴に瞳を入れようとした。その時、ガチャとドアが開きA先生が部屋に入ってきた。
いつもの儚げなA先生の雰囲気はなく、髪を振り乱して目をギラギラとさせている様子は、まさに鬼のようだった。誰もがA先生に注目しているなか、先生はまだ少し荒い呼吸をしながら話し出した。
「…私が、あなた方にあの猫の置物を渡したのは、あなた方に少しでも人間味を持って欲しかったからです。あの置物は、私の友人に特別に作ってもらったものですが、人生に楽しみを感じてほしいという願いを込めながら作ったと友人は言っていました。あなた方は私が担任をした一年あまり笑わず、毎日疲れ切った顔で学校に来ていたから私はとても心配していました。そこで、特別注文して綺麗な置物を作ってもらったのです」
黙っている僕たちにA先生は続けて話す。
「あの置物の目はとても綺麗で、本当かどうか分かりませんが落ち着く作用がある、と聞いています。私はあなた達に落ち着いて、急ぐ必要はないのよと伝えたかったのです。それが…」
A先生は顔を下に向けた。しかしすぐに顔を上げ、
「あなた達は大切にしていたのでしょう。でも、もうその猫の置物は砕け散ったのです。もうないのです。いい加減現実を見てください」
そういうと、座り込んで泣き出した。その時、F君が言った。
「現実がなんですか?僕たちが大切にしていたことは変わらないでしょう」
その通りだ。A先生が言ったのは結局ソラはもういないから、そうやっていつまでもソラに固執するのはやめろ、ということなのだ。委員長も立ち上がって言う。
「私達にそういうことを言ったら、納得するとでも思ったんですか?」
A先生の涙は止まり、呆然としたように僕らを見ている。本当にその言葉で僕たちが納得すると思っていたんだろう。
もうこの世界にソラはいない。あの輝く黒色の毛並みは見られない。
深く青く吸い込まれそうなくらい綺麗なソラはーーもう見られない。
そんな事はさっき思い知った。だからこそ、Sさんを許せない。悪意もなく、うっかりでソラを殺してしまったSさんは許せない。だって悪意がないんだったら、どうしてあの時ソラは死ななきゃいけなかったんだろう。
許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない。
誰を?Sさんを?本当に?本当に許せないのはSさんだけ?本当に許せないのは自分じゃないの?あの時、砕いたのはSさんだったけど、もしかしたら、自分だったかもしれない。本当は、自分がソラを砕くことがなくて安心してたんじゃないの?だって自分がソラを殺してないもんね。それでよく、制裁とか言えたね。
「うわぁ!」
僕は叫んでソラの瞳を投げた。スローモーションで瞳が飛んでいく。床に落ちて砕ける。破片が周りへ飛んでいく。ガチャン!

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