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書籍紹介『障害をもつ子を産むということ』

『障害をもつ子を産むということ 19人の体験(野辺明子/加部一彦/横尾京子)』という本の紹介です。

僕自身は大学生の頃から障がい児学童(現在の放課後等児童デイサービス)やガイドヘルパー、グループホームなどのアルバイトや支援学校生徒の余暇活動ボランティアなどで障がいのある子やその保護者と関わってきました。支援学校で勤務することとなり、障がいのある子たちとも、その保護者ともたくさん関わり、お話をしてきました。

僕だけではないのかもしれませんが、支援学校などで沢山の子や保護者と関わっていると、障がいの理解や障がいを「受容」することが当たり前に感じてしまいそうになります。障がい受容はこのように定義されることがあります。

「障害を直視し、障害に立ち向かい、障害とともに生きることも自己の生き方の一つで
ある受け止め、生活していくことである」(清水里江子,2012)
総合リハビリ美保野病院より)

ですが、本人が自分の障がいを受容することや、保護者が我が子の障がいを受容するというのはそんなに簡単なものではないはずです。「障がいを直視すること、障がいに立ち向かい、障がいと共に生きることを選択すること」は、多くの事例と出会ってきた医療や福祉や特別支援教育関係者からすれば、望ましく、早くそうなってほしいという思うのでしょうが、辛く時間のかかるものでしょう。

障がいの受容は、余命宣告を受けた心理過程と似ているという話を聞いたことがあります。

人の「死の受容」プロセスを研究した精神科医にエリザベス・キューブラー=ロスという人がいます。このプロセスとは5つの段階があるといわれています。
1.否認と孤立:頭では理解しようとするが、感情的にその事実を否認している段階。
2.怒り:「どうして自分がこんなことになるのか」というような怒りにとらわれる段階。
3.取り引き:神や仏にすがり、死を遅らせてほしいと願う段階。
4.抑うつ:回避ができないことを知る段階。5.受容
講談社BOOK倶楽部より)

もちろんそれがそのまま障がいのある子と出会う親と同じではないでしょう。調べてみるといろいろな説がありました。

ドローターの障害受容説は、I.ショック→II.否認→Ⅲ.悲しみと怒り→Ⅳ.適応→Ⅴ.再起の段階をたどるとするものです。

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(画像はDINF障害保健福祉研究情報システムより)

障がい児の親が子どもの障害を知った後に絶え間なく悲しみ続けている状態と捉えるのが、オーシャンスキーの慢性的悲観です。

精神薄弱児の大多数の親は広範な精神的な反応、つまり慢性的な悲哀に苦しんでおり、医師や臨床心理士やソーシャル・ワーカーなどの専門家はそのことにあまり気づいていない。そのため、専門家は親に悲哀を乗り越えることをはげまし、親がこの自然な感情を表明することを妨げる。また、精神遅滞児の親にとって自然な反応(慢性的悲嘆)をむしろ神経症的な症状と見なし、かえって、親が現実を否認する傾向を強める要因となっている。
DINF障害保健福祉研究情報システムより)

また、障害受容を段階としてとらえないこと、とくに障害受容を課題としないモデルが中田洋二郎の螺旋形モデルです。

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(画像はDINF障害保健福祉研究情報システムより)

親の内面には障害を肯定する気持ちと障害を否定する気持ちの両方の感情が常に存在し、そのため、表面的にはふたつの感情が交互に現れ、いわば落胆と適応の時期を繰り返すように見える。また、その変化を一次元の平面で見れば否定から肯定への段階のごとくに見え段階説的な理解が生じる。しかし、その過程は決して区切られた段階ではなく連続した過程である。すなわち、段階説が唱えるゴールとしての最終段階があるのでばなく、すべてが適応の過程であると考えられる。
DINF障害保健福祉研究情報システムより)

いろいろなモデルが考えられるのでしょう。

でも、この本を読むと、赤ちゃんが重い病気や障がいを持って生まれてきたと知らされて大きな衝撃を受ける様子、「なぜ私の子どもが…」「どうしてこんなことに…」と突然自分の身にふりかかった現実に戸惑うばかりで、なかなか目の前の真実を受け入れることができない様子を、文字通り、目の当たりにします。

この本は、先天異常やお産の後遺症として障がいが残った子のお母さん、またその不安を感じながら出産したお母さんたちが、実際に医療の場で体験したことやその時の気持ちを書いた手記を集めたものです。

はじめにで書かれているように『ずしりと重い手応えのある手記』です。読めば読むほど、それまで何も考えずに「障がいの受容」という言葉を使っていた自分を恥じました。知識としては知っていた、医療と福祉の連携や当事者団体・親の会などのネットワークの大切さ、乳幼児期の保護者ケアの必要性などを実感を持って再確認しました。

印象に残っているものをいくつか引用します。

 子どもと最初に対面したのは夫だった。その時のことを夫は次のように書いている『私は、まだかまだかと無事に生まれることを祈りながら手術室の前で待っていました。すると、保育器に入った赤ちゃんがシーツに包まれて出てきました。それから、私はあわただしく、看護士にNICUに連れて行かれました。NICUに入ると、保育器の中に、先ほどの赤ちゃんがいました。なんとも表現できない姿でした。しかし、その子が自分の子どもであることは、しっかりと受けとめていました。だからこそ、その後、とんでもない行動にでたのです。担当の医師から、「早急に手術しないと、命が何日持つかわかりません」と手術の意思を聞かれ、「そのままにしておいてください」と答えたのです。その上、二日たっても、娘の様子が悪化しないとわ「この子を殺してください」とまで言ってしまったのです。その頃は、こんな子が生きていけるわけがない。かわいそうだ。……等、悪いことばかり考えていたのです』。
 望が生まれてから、私は前向きに育てようと思いながらも、誰もアドバイスしてくれる人もなくいったいどのように育てたらいいのだろうかと悩んでいた。普通の子ども向けのオーソドックスな育児書を見て日光浴させ、散歩をし、話しかけ、ミルクを与えた。

 時々訪問してくれる保健所の保健婦がアドバイスしてくれたり相談にのってくれる唯一の人であった。しかし、保健婦は忙しく度々は来られないし、望のような子は初めてで、そうたくさんのアドバイスもできないのが現状であった。どんなふうにあそんでやればよいのかという「今」もよく見えず、ましめこの子の「将来」がどうなるのかなど予想もできなかった。そして、仕事を続けることはやはり無理なのだろうかと自分の将来も見えなかった。この先どうなるのか予測もつかず不安な日々であった。
 気持ちばかりが前向きで、でも、どう進んでいいのかわからなかった私が、進んでいく方向が見えてきたのは、望が一歳になる頃であった。先天性四肢障害児父母の会に似たような症状の子どもがいることを知り、会いに行った。心の支えができた気持ちがした。また保健婦の紹介で通園施設をいくつか見学した。ここで私は、初めてソーシャルワーカーに会った。そして療育の助けをしてくれる所があることを知った。目の前にかかっていた霧がだんだんと晴れていくのを感じた。
 もう一度、出産からやり直せるならば、先生や助産婦さん、看護婦さんに是非お願いしたいことがあります。
 子どもが誕生したときに「おめでとう」と言ってほしい。普通の出産と同じように。
一番大切なのは、一つの生命が誕生したというすばらしいことです。そのすばらしいことが、障害をもっているということで置きざりにされては悲しすぎます。
 そして、もし、障害をもって子どもが生まれたとしても、かわいそうな子にはしないでほしいと思います。その子にとって障害は不便であり、側から見れば、かわいそうなことなのかもしれません。でも、その子は決してかわいそうな子ではないからです。今の息子を見て、そのことを実感しています。

 私は息子を産むまでは、子どもが健康で何の問題もなく生まれてくるのは当たり前のことだと思っていました。
 自分の子どもに障害があると知った時のショックや不安は当事者にならないととても想像できることではないと思います。私は息子が障害をもって生まれてきたことによって、短い間にたくさんのことを教えられました。
 三日後、初めての面会。
 あまりにも小さすぎる赤ちゃんに胸がつまり泣きくずれた自分を思い出すと、今でも涙があふれそうになる。
「かわいそうなことをした。ごめん。こんなに小さく産んで本当にごめんね」。それだけだった。
 自分の赤ちゃんを見たのか見なかったのか、あれを赤ちゃんと呼べるのか、赤ちゃんてかわいいはずじゃなかったっけ…。いろんな想いがいっぱいで、でも言葉にはならなかった。
 ただ泣くだけ。だが、泣いても泣いても元には戻らない。
世の中の障害者の親の何人もが「どんな子であっても産みたいと思った」と言い、「障害は個性である」と胸を張って言える人がいることも知っていますり私たちもボランティアを通し、そんな親子とかかわったこともありましたし、障害イコール不幸と決めつける差別的意識に怒りも感じていました。しかしながら、自分がその身になった時、それは違ったものです。とんな価値観でどんな生き方をしてきたか、私たち夫婦に差し出された踏み絵のような気すらしました。
…「このままでいいのか」という焦りがでてきて、先生に相談すると、O療育センターという、通園で訓練をする所へ紹介状を書いてくださいました。
 紹介状を持ち診察を受けに行きました。生後十ヶ月くらいだったと思います。私自身とても焦っていた時でした。午後に行くと、母子通園で来ている子どもたちの伸びやかさとお母さんたちの明るさが不思議でした。私はこんなに苦しんでいるのに…。今考えるとまだまだわかってはいるけれど娘の障害「受け入れられず苦しんでいた時です。
 療育センターのO先生は紹介状を読み、少し娘を診察してから、抱っこをして、「かわいいねえ。今から訓練していこうね。きっといろいろよくなるよ」と言われたのです。私はびっくりして、初対面のこの娘を、「かわいいねぇ。」と抱っこしてくれることがとても私に対して衝撃的でした。私は数か月間、私だけが苦しんでいると思い、この娘を恥ずかしいとどこかで思っていたのですから…。
 療育センターへ行くようになり、娘も育ちました。先生や保母さん、周りのお母さん方に私たちは育てていただきました。療育センターではいろいろなことを教わりましたが、そのなかでも子どもは楽しい状態の時に伸びるということが印象に残っています。

ただ手記を全て通して読んだ方が、産前から産後を経ての想いや考えの変化がよくわかります。

19人の手記を読むことで、どんなときに癒されたのか(傷ついたのか)、どんなことが求めまれていたのか、必要とされていたのかが朧げに見えてきます。

それと同時に生育歴や障がいの受容という言葉のもつ意味が、それまでとは違うように感じるはずです。

そもそも障がい受容を保護者や本人に押し付けるのではなく、いろいろな情報や知識を得て、その子とたくさんの経験をし、できることが増えたりしていく中で、その子のことを知って受け止められるようになるのではないでしょうか。Twitterでそんなツイートを発見して深く同意しました。

もちろん支援者として関わる僕らには客観的で冷静な立場も必要ですが、本当の意味で保護者に寄り添うためにも、読むことをおすすめする本です。


参考にしたサイト

親の障害の認識と受容に関する考察-受容の段階説と慢性的悲哀(障害保健福祉研究情報システムDINF)



表紙の画像はAmazon.co.jpより引用しました。