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教育勅語についての「まとめ」

山口輝臣/福家崇洋編 『思想史講義【明治編Ⅱ】』 ちくま新書 の第二講「教育勅語」をまとめました。

現在でも主に右翼政治家などから「教育勅語一部容認論」がでてきますが、その成立過程についてはあまり知られていません。

一緒に勉強していきましょう。

・教育勅語=教育ニ関スル勅語

大日本帝国憲法 施行の1890年10月30日に天皇より首相と文相に授けられる

日本国憲法   施行の1948年に排除ないし失効確認(衆参両院にて)

 <約58年間、教育勅語は効果を有していた。そして、今も?>

・新たな教育勅語発布論

西園寺公望「道徳の本旨は古今によつて変りはないが、道徳の形式は時代によりて変化せねばならぬから、新社会に処すべき新道徳を起こさねばならぬ」(竹越与三郎『陶庵公』より)

・教育勅語の制定過程(1890年2月の地方長官会議)

山県有朋首相と芳川顕正文相によれば、教育勅語の制定は、地方長官会議がきっかけである。この会議は、内務大臣が各府県の知事を招集して開催された。山県は兼任していた内相として芳川は内務次官として携わる。ここで「徳育涵養の義に付建議」があった。これは、現行の教育が「知育に偏り、徳育を蔑ろにしている」と批判した上で、「我国固有の倫理の教」によって徳育の主義を定めることで「我国固有の元気」を維持できる、という内容だった。これを受けて、府県知事は文部省に押しかけたことで、世間の耳目を集めることになる。

 この押しかけのきっかけも、この会議に先立った前年12月には山県内相の府県知事宛の演説である。「憲法の実施は方に近きにあり」とはじまり、それにともなって地方でも政論が沸騰し、人心が激昂していると指摘し、適切な対処を求める内容であった。

 ここから、大日本国憲法の実施が教育勅語の制定を生み出す回路があった。

・山県有朋内相の思惑「自治の必要」

 先ほどの演説内容は「市制・町村制(1888年公布)」の注意事項を述べたもの。山県はこの制度を「自治の制」と考えており、市町村に「自治の精神」の発達を求めていた。しかし、これがうまくいっていない。それは「政党政治」による対立が市町村でもあったからだ。山県は、政党勢力の浸透を防ぎ、地方を藩閥政府の地盤にしたいと構想していた。

 山県は立憲政治の根本として「自治の制」が必要だと考えていた。

「人民をして市町村の公務に練熟し、漸ようやく国事に任ずる実力を養成せしめば、以て立憲政治の根本を全くし国家の基礎を鞏固きょうこならしむるに至る」

・立憲政治にこだわる山県の見解

 立憲政治のための自治の制であり、それを抑えるための「徳育の涵養」であり「教育勅語」の制定である。しかし、山県は、どうしてここまで用意周到なのか。それは明快であり「どこにも(立憲政治の)先例がなかった」からである。だから、山県は慎重だったのだ。「新政を創始する」と山県は演説で語っていた。

 山県は、立憲政治が実現すれば、臣民の徳義を善美にし、幸福を増進すると考え、さらに憲法によって自由の程度を高くし、ゆくゆくは「開明国」と並ぶ地位へ進むことになると考えていた。立憲政治を実現すること自体に価値があったのだ。

・立憲政治の根幹は何か

 では、立憲政治の根幹は一体何なのか。それは「「異説」を「調和」させる機能」である。そして、当時の人たちは、それを「議会」に見出していた。これは間違いではない。議会は異説を可視化させ、ルールを共有し議論をして調和を導き出すことこそ立憲政治の妙味である−はずだった。

しかし、実際はそうはなっていない、というのが山県率いる内務省の危惧だった。政治運動が活性化し、「暴力」や「悖乱はいらん(道に外れた行い)」によって「異説」を断とうとする動きまであった。実際、憲法発布日には森有礼文相が、そして同年10月には大隈重信外相がテロリズムに遭っていた。山県は10名しかいない閣員の2名を失ってしまった。「異説」への忍耐を欠き、暴力に訴える現実があった。そこで、立憲政治に必要な「親和共同の精神」を醸成するための手段の一つが教育勅語であった。

・教育勅語の起草

 以上の山県演説は(森文相による開明的な)普通教育の現場に不満を抱いていた府県知事たちに響き、それへの反応が「徳育涵養の義に付建議」であった。

 これを受けて山県内閣では「徳教に関する箴言しんげん(教訓となる言葉)」を編むことにし、榎本武揚文相に作業を命じたが、榎本自身も森と同じく教育の近代化推進論者であり、「科学技術に関心が強く、徳育政策には関心が薄い」との姿勢を崩すことがなく、山県は榎本を更迭し、側近の内務次官であった芳川顕正を文部大臣に抜擢して、この事業を進めた。

芳川文相は、これを明六社の一員であった中村正直に委嘱し原案を得たが、その内容を井上毅がきびしく批判したことから、以後は井上が起案の中心となった。井上は、同じ熊本出身の先輩である宮中顧問官であり天皇の側近の儒者である元田永孚の手も借りながら起草された。

クリスチャンの教育者で、かつて天皇の受洗を望んだこともある中村正直、明治政府の開明的教育政策を一貫して批判し、神祇官を復興し祭政一致を取り戻す運動をしていた元田永孚、という2人を相手にしながら、憲法の草案者である井上毅が主導して、教育勅語は作られた。

・「人心の帰一」

 教育勅語は「親和協同の精神」を醸成すべく作られたものである。つまり、中村(クリスチャン)と元田(儒教者)という敵対的とも思える2人の間ですら合意できる内容が求められた。だから、宗教の争いを起こしかねない言葉を排するというのも大切であった。ここで宗教が登場した理由は、伊藤博文枢密院議長の演説からもわかる。伊藤は、欧州にはキリスト教があり、人心を帰一させ、それにより立憲政治を支えているが、日本にはそれがないことから、「我国に在て機軸とすべきは独り皇室あるのみ」と述べている。

・常識的な、あまりに常識的な

 しかし、宗教抜きの道徳というのはあり得るのであろうか。その課題に直面していたのが、第三共和制下のフランスであった。フランスの教育政策は義務と無償と「ライシテ(世俗)」の原則を掲げ、道徳教育の世俗化を進めていた。井上は中江兆民を介して、フランスへの知識もあった。

 そうしたことから、教育勅語の内容を「之を古今に通して謬らず之を中外に施して悖らず」、すなわち、古今内外を問わず正しい道である、と起草者たちは言い切った。この時期に国家主導で世俗道徳を構成しようとすれば、その時代の「常識」に依拠するほかなかったのだ。

 内村鑑三のいわゆる「一高不敬事件(1891年)」においても、内村は(クリスチャンのため敬礼はしたが最敬礼をしなかったことで指弾され依願退職を余儀なくされたが)、勅語の内容については異議を唱えていなかった。つまり、それくらいに「包摂度の高い仕上がり」と言える。

・政治と徳

 一般的に徳育のために出されたとされる教育勅語ではあるが、その中には立憲政治と関わる一説もある。それは「常に国憲を重じ国法に遵ひ」という部分である。これは中村正直案にはなく、芳川顕正が発案し、井上毅が賛同して挿入したが元田永孚は徳育の勅語にこれは不要と削除したが、やはり井上が復活させて、そのまま発布された。芳川と井上にとっては、立憲政治のための勅語であり、この一節を削ることはあり得なかった。

 立憲政治導入のために道徳に助けを借りた明治の人々を見て、いかにも昔の話と感じるかもしれないが、現在だって政治家の道義的責任を問う声はあり、それはどのような根拠によるのだろうか。政治において必要なのは徳かもしれないということを考えさせられる教育勅語であった。