フス戦争解説⑧ ヴィートコフの戦い


フス戦争解説⑧ヴィートコフの戦い



注:今回の解説には、作者の想像がたくさん含まれています。合っているのは日付と、戦闘に参加した兵士の数(これも諸説あります)と、戦闘の結果のみです。
まだ研究が進んでいない箇所でもありますので、とりあえず現在知りうる情報に基づいて書いてみました。

では、どうぞ。


1420年7月初旬。プラハ包囲に向けて、ローマ王ジギスムントが率いる異端撲滅十字軍は準備を進めていました。その数、およそ10万。

対するフス派軍には、チェコの各都市からの増援も含めて3万程度の軍勢が集まりましたが、プラハへのルートが遮断された現在、それ以上の増援は見込めなくなっていました。

5月からじわじわと十字軍のプラハ包囲網は狭まっていましたが、しかし7月になってもプラハ市内への攻撃はされませんでした。
それは、十字軍の目的がプラハを殲滅することではなく、フス派に対して無血降伏を促すことにあったためと思われます。


また、プラハは旧市街と新市街に分かれており、フス派が占拠しているのはそのうち新市街のみでした。旧市街にはカトリック派に味方したいと思っている貴族も多く住んでいましたが、それら貴族はフス派によって拘束され、いわゆる人質として旧市街に閉じ込められていたのではないか、と筆者は考えます。

旧市街に囚われているカトリック貴族がいるせいで、十字軍はプラハへの全面攻撃をためらっていた、という説です。
ジギスムントはこの戦争を「既に勝ちは確定している」とみなし、戦後の統治をどうするかを念頭に置いた作戦を立てていました。
戦争に勝っても、地元の貴族らの協力なくしてはボヘミア王国の統治はできません。今、フス派もろとも旧市街のボヘミア貴族を攻撃してしまったのでは、その協力が得られず、戦争の勝利も無意味になってしまいます。
ですので、ジギスムントはあくまでも包囲によるフス派の降伏を待ち続ける戦術を維持しなければならなかったのです。

さてそんなわけで、プラハの外では十字軍の兵士達が無為な時間を過ごしていました。
十字軍に参加したヨーロッパ各地の諸侯は、参戦の費用は自分で賄わねばならず、プラハ近郊の農村などからの略奪も禁止されているので、包囲が長引くほどに負担する費用がかさんで行きます。
兵士達も、参加しても何も褒賞がないのでやる気がありませんし、指揮する貴族も本音は早く帰りたいと思っていたことでしょう。

包囲開始からおよそ2ヶ月経った頃、十字軍の総大将であるジギスムントのもとには、各諸侯からの不満と財政難により、これ以上の包囲の継続は不可能であるとの報告が相次ぎました。

そこでジギスムントは、戦略の転換を迫られます。

包囲による無血開城ではなく、フス派をプラハの外に誘き出し、野外での決戦に舵を切ることにしました。

果たして、そう上手く行くでしょうか?

ジギスムントには策がありました。

フス派を市内から誘き出すために、ジギスムントは敢えてフス派の逃げ道を残しておいたのです。

その逃げ道とは、プラハの東の丘に建造された要塞ヴィートコフでした。
フス派にとってはヴィートコフ要塞があるおかげで、何とか物資の枯渇に耐えることができていました。しかし、もしこの要塞が攻められて陥落することがあれば、その時こそプラハは完全に包囲されてしまいます。
ジギスムントが指揮する十字軍にとって、こんな要塞を陥落させるのは容易いことでした。
しかし敢えて残しておくことにより、交渉の材料にもなりますし、フス派本隊を誘き出す囮としても使える、と、ジギスムントは考えていたことでしょう。

プラハにとってはヴィートコフ要塞こそ生命線でした。
なので、防御のためにはそれなりの兵力を要塞に待機させていたはずです。

ジギスムントは数千の騎兵でヴィートコフ要塞への第一次攻撃を命令しました。
この要塞を落とさずとも攻撃さえすれば、プラハ市内に籠城するフス派本隊を誘き出すことができるだろう、とジギスムントは読んでいたのです。

ジギスムントの命令のもと、マイセン辺境伯の軍勢がヴィートコフ要塞に突撃を仕掛けました。
ヴィートコフ要塞には三重の堀と、簡易的な城壁が設置されていました。
騎兵隊は要塞の手前で下馬し、徒歩で要塞攻略へ向かいます。

堀や壁を乗り越えた先には巨大な物置のような木造の建物があり、それこそジシュカが建造したヴィートコフ要塞の本体でした。

それを守備するフス派の兵力は、なんと!

たった29名の市民兵でした。

しかも、うち3名は女性であり、年端も行かない少女もいたという記録があります。
どう言った理由でこの人数が配置されていたのかは分かりません。偶発的に取り残されたのか、それとも物資の枯渇によってこの人数を配備するので精一杯だったのか。

余談になりますが、こんなときSF的に考えるならば、タイムスリップしてしまった高校球児と女子マネージャーらが戦争に巻き込まれ、野盗に追われて逃げ込んだのがこの要塞だった、なんてストーリーが似合うシチュエーションです。(群青戦記という漫画がそんな感じです)

さて史実の記録によりますと、ヴィートコフ砦に配置された26名の男たちは、当初は迫る敵に対して絶望したり、恐怖してうずくまったりしていたそうです。
しかし1番年齢の若い少女が彼らを鼓舞し、要塞の前線に立って敵を迎撃していました。

しかし奮戦むなしく、敵の放った矢に射抜かれて少女は死亡してしまいます。
その死を受けて男たちも腹をくくり、死闘に身を捧げました。

26名の守備兵による奮闘で、2000の十字軍兵はヴィートコフ要塞に釘付けになっていました。

そこへ、プラハからフス派の救援が駆けつけます!
その数、なんと50人!

(26名とか50名とか、戦争を舐めているとしか思えない人数です。)
ごく少数の兵でしたが、手にはハンドガンやクロスボウを携えており、ヴィートコフを攻撃している十字軍兵の側面から一斉射撃を行いました。

これは奇襲となり、十字軍兵は大混乱に陥ってしまいます。
ただでさえ士気が低く、また、目前の要塞に対してはすぐに片がつくと油断もしていたことでしょう。

側面からの銃撃に怯えた兵士達は、われ先にと戦場から逃げ出して行きます。
プラハの銃撃部隊もそれを追撃し、ヴィートコフ要塞の北川にある断崖へと十字軍兵を追いやりました。

行き止まりの崖の上は、逃げ場を失った十字軍兵で溢れ返ります。しかし後続の兵士が次々とやってくるため、先頭の兵士たちは押し出されて崖から転落して行きました。

こうして、ヴィートコフ要塞を攻撃していた数千の兵は散り散りとなり、犠牲者は300〜500人を数えました。

この敗北の知らせを受けた十字軍諸侯、及びジギスムントは、それ以上の戦闘の継続が困難であることを悟りました。
いくら10万の兵士がいると言っても、たった100人にも満たない敵に数千の兵が敗北してしまうという現実の前にあっては、皆戦意を喪失してしまったのです。

7月下旬、十字軍とプラハの間に和平が締結されます。
プラハは十字軍の解散を条件に、ジギスムントのボヘミア王就任を認めました。おそらく、フス派の内部での発言力は主戦派よりも穏健派の方が強かったのでしょう。
和平の条件は穏健派の主導で決められたと思われます。

その結果ジギスムントはプラハ城で戴冠式を行い、十字軍を解散させました。また、自身もハンガリー方面へ撤退し始めます。

こうしてボヘミア王国を形式上はジギスムントのものとすることにより、プラハ包囲戦の幕引きを得ることができたのでした。

しかしながら、それは次の争いの火種を生むことになります。この混乱に乗じて、ボヘミア王国の運営についての自らの野心を叶えようとする者達が現れたのです。

ジギスムントをボヘミア王とは認めず、自身が次期国王になろうとする者。

ジギスムントを廃して、隣の国から国王候補を招こうとする者。

そして、国王を置かず、民衆による自治を目指そうとする者。

ヴィートコフの戦いを乗り越えたボヘミア王国は、その後は団結することはなく、政治的派閥に分かれての内紛戦争へとつき進むことになるのです。


フス戦争解説⑧〜終〜

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