フス戦争の解説と考察②


フス戦争〜開戦前夜②〜

さて、まとまりに欠けるフス派領主同盟ではありましたが、フス派信者にとってはこの上ない後ろ盾となりました。

フスの死後間もなく、450名の貴族の支援を得たフス派信徒は勢い付き、プラハでクーデターを起こします。
プラハ市内のカトリック教会や市庁舎を襲撃し、役人や聖職者を追放したのです。そしてフス派の人物がそれらの役職に就き、プラハはフス派によって占拠されたも同然になりました。
特に、教会を治める聖職者については、王宮摂政を務めるチェニェック•ヴァルテンベルクがプラハ司教を捕まえ、フス派の人物に強引に叙階を与えて聖職に就かせる、という暴挙も行われたりしました。

ボヘミア王ヴァーツラフはフス派の横暴を早くなんとかしたいと思っていましたが、フス派を支援する貴族が450名もいることと、その支援者の筆頭には王妃ゾフィエと、摂政チェニェックの名がある事が大きな障壁となり、王の声は封殺されてしまっておりました。

ヤン•フスの死後の1415年から1419年にかけて、ボヘミア王国の首都プラハはフス派の勢力が増大します。それに呼応するようにして、プラハ以外の各都市でも、カトリック勢力が追放されたり、フス派が参事会を乗っ取ったりということが起きます。いわば、チェコ全土がフス派の勢力に塗り替えられようとしていました。

そのような状況が続くと、ボヘミア王国には外圧がかかるようになります。
ボヘミア王の異母弟にあたるローマ王ジギスムントが、「フス派とやらを早くなんとかせい。もたもたしているなら、ヨーロッパ中に十字軍を招集してプラハを包囲すっぞ」という脅しの手紙を送り付けて来たりしました。

ヴァーツラフは初めのうちは無視していたものの、ローマ教皇からも同じような事を言われると流石に焦り始めます。

1419年6月30日、ボヘミア王ヴァーツラフは決断を下します。
プラハからフス派を一斉に追放し、かつて追放されたカトリック勢力の聖職者や政治家をプラハに呼び戻したのです。

それにより、それまで我が世の春を謳歌していたフス派の人々は、一気に流浪の身に追いやられてしまいました。
行き場を失ったフス派の人々は、郊外にある山中で集会を開き、カトリック勢力への恨みつらみを論じ合い、今後自分たちが生き残るには剣を持って戦うしかない、などと言って民衆を煽動しました。

そしてプラハ追放から一か月後の7月30日、フス派の僧侶ヤン•ジェリフスキーが先頭に立ち、多くの民衆を従えてプラハ市内でのデモ行進を決行します。これがフス戦争開戦の行進となったとされています。

デモ隊はプラハ市庁舎へ向かい、そこで囚われているフス派同志の釈放を求めました。
しかし市庁舎の役人は投石でそれに答え、ブチ切れたデモ隊は市庁舎内に乱入し、役人たちを捕まえます。
そして2階の会議室の窓から、その役人たちを放り投げて殺害してしまったのです。
そのとき、窓の下には武器を持った民衆が大勢待ち構えており、落ちて来た役人にとどめを刺したと言われています。

今更ですが、フス戦争を語ると、このような残酷な描写を避けることができませんので、閲覧にはご注意ください。

多くの歴史書では、この事件を「プラハ窓外投擲事件」と名づけており、これをもってフス戦争の開始とするのが主流となっています。

この騒ぎを聞きつけた王宮衛兵隊が300騎あまり駆けつけて来ましたが、デモ隊の規模と士気におののいて、何も出来ずに解散したと言います。

市庁舎を占拠したデモ隊はその場で人選を行い、新たな参事会を結成します。

プラハは再びフス派のものとなるかと思われましたが、事態はそう簡単には運びません。

プラハは大きく三つの地域に分かれていて、王宮のあるプラハ城、ブルダヴ河を挟んで裕福層が住まう旧市街が城壁に囲まれており、その外側に庶民の暮らす新市街があります。

今回フス派が占拠したのは、この新市街のみでした。
それ以外の地域まで占拠するには、フス派の人員や政治的な根回しが圧倒的に不足していたのです。

そこで、フス派の過激派は、プラハ全域の完全占拠に向けて次の作戦を展開する事にしました。

その作戦とは、プラハ以外の地域に住む市民や農民を駆り出し、巡礼団を装って大人数の人員をプラハになだれ込ませるというものでした。
西ボヘミア地区と南ボヘミア地区から2部隊が出発し、プラハの手前で合流するという計画です。
西ボヘミア地区から出発するのはほとんど非武装の農民たちで、プラハへの道中、各村々から巡礼者をつのって人員を増やして行きます。最終的には4000人にまで膨れ上がりました。

一方、南ボヘミア地区から出発するのは武装した300騎の兵士で、4000名の農民に合流地点で与える武器を輸送したのではないかと思われます。

1419年の11月初旬、かくして西と南からそれぞれのフス派がプラハに向けて行軍を開始しました。

しかしその動きはカトリック勢力に掴まれており、南地区から出発した300騎の部隊が、合流地点の手前のジヴォホシュテという地域でカトリック勢力の待ち伏せに合い、戦闘が始まります。

その戦場の名前から「ジヴォホシュテの戦い」と呼ばれるこの戦闘が、フス戦争初の大規模会戦だとされます。

フス派軍300に対し、カトリック軍は2000の騎兵で迎え撃ちます。
戦闘はフス派が一方的にやられます。300人のうち100名が戦死、残りは捕虜になりました。
生き残った兵が別働隊の西地区からの巡礼団に援軍を求め、4000の巡礼団が戦地に駆けつけましたが、その頃にはもう決着がついていました。

援軍の到着により数の不利を察したカトリック軍は、それ以上の戦闘を避けて退却して行きました。

この戦いはフス派の敗北となり、プラハ侵攻計画も失敗に終わろうとしていました。

しかし、まだ終わってはいないのです。

西と南からの部隊の他に、実はもう一部隊がプラハに向けて進軍していたのです。

その部隊を指揮するのは、戦術の天才、ヤン•ジシュカその人でした。

ヤン•ジシュカは、あろうことか作戦の本隊である4000名を囮にし、敵の防御が手薄になっているルートを寡兵で突破し、電光石火の勢いでプラハの南の砦を占領していました。
砦の守備隊長がジシュカと懇意で、砦を無血開城したという説もあります。

ともあれ、ジシュカの部隊はそのままプラハ制圧を目指して進軍しました。

プラハ城へ続く橋の上で、ジシュカの軍と王宮守備隊の戦闘が何日か続きましたが、その戦闘は思わぬ形で停戦することになったのです。

フス派を擁護するはずの王妃ゾフィエが、戦闘停止命令と、双方の和平を提案してきたのです。

それには次のような背景がありました。

王宮にはフス派を擁護する王妃やチェニェックがいたものの、ローマ教皇などからの外圧に対しては弱気になりつつありました。

というのも、大黒柱であるボヘミア王ヴァーツラフは、クーデター発生時にはプラハには居らず、外遊先のクランティツェ城にてクーデターの知らせを聞きます。そして怒りで頭に血が上り、そのまま倒れて死亡してしまうという事態が起こります。

外交の窓口であった王を失ったことにより、王妃は一層弱気になってしまうのです。フス派の勢力がいくら強くても、ヨーロッパ全土や、カトリック教会を敵に回して戦争をするという決断はできないものでした。

その弱気が貴族たちにも伝わり、フス派同盟から脱退する貴族も出始めます。
そもそも、フス派の貴族たちはカトリック勢力を駆逐した後、自分たちが政治の中枢になることを思い描いていました。
しかしこのフス派クーデターは、貴族を差し置いて一般庶民が政治を動かそうとするものでした。すなわち、ここに来て貴族側と庶民との利害の対立が明確になり、貴族らはフス派を支援する意義を失ったのです。
それどころか、むしろフス派は自分たちの政敵とさえなり得るため、フス派領主同盟に参加していた貴族の中からカトリック側に寝返る者も増えて行くのでした。

450名のフス派同盟は、こうして瓦解して行ったのです。

そのような背景があり、王妃ゾフィエはプラハに侵攻してきたフス派を擁護することができない状況へと、追い詰められていたのでした。

そうなると、王妃が下す決断はひとつ。

「フス派のみなさん、カトリックと仲良くしてください!」

というものでした。

フス派と言っても内情は様々な思想の人々がいて、いわゆる戦争賛成の「過激派」と、戦争反対の「穏健派」に大別されます。
王妃の提案は、過激派にとっては受け入れ難いものでした。
ジシュカをはじめとした過激派の人々は停戦に従ったものの、もはやプラハは我々の拠点にはなり得ないと失望し、プラハを去って行きました。
(過激派の一員であったジェリフスキーは、新市街の占拠を続けるためにプラハに残ったと思われます。)

こうして、フス戦争の開幕第一戦は終わります。

しかし過激派が次に向かった街には、新兵器を大量生産できる工業設備と、その資金を潤沢に提供することができるパトロンが揃っていたのです。

街の名はプルゼニ。
ドイツのニュルンベルク、レーゲンスブルクとの交易によって栄えた、ボヘミア第二の都市です。

過激派ヤン•ジシュカは、プルゼニを拠点として戦争の第二幕を始めようとしていました。






【フス戦争〜開戦前夜②〜終】


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