フス戦争の解説と考察④


フス戦争〜プルゼニについて〜

ピルゼン、またはプルゼニュとも発音するこの都市は、古くからドイツのニュルンベルクや、レーゲンスブルクと言った都市との交易で栄えていました。

そもそもボヘミア地方は上質な銀の鉱脈が豊富で、他にも金、鉄、錫、鉛、アンチモンなどの地下資源の埋蔵量が多い土地でありました。

それらの鉱物とその生成品は優れた交易品となり、ヨーロッパ中で重宝されていました。(活版印刷機がフス戦争終結後間もなく発明されます。それには鉛と錫に、アンチモンを配合して得られる合金が不可欠となります。豆知識)

特にプルゼニには鉄の製錬や鋳造を行う工房が軒を連ねており、生産と交易を同時にこなす都市構造を持っていたのです。

プルゼニからは大きく2つの交易路が伸びており、北側はニュルンベルクに、南側はレーゲンスブルクに繋がっていました。
古くは「城伯」が任命され、その城伯の家系が交易路の治安を代々守護していました。
しかし年代が下って城伯家が没落すると、その能力は著しく低下して交易路の治安が悪くなりました。
そこで、ピルゼン近郊の領主達が協力し、皆で交易路の治安を守ろうと結成されたのが「ピルゼンラントフリード」という組織なのでした。構成員は地元の名士達で、皆カトリック信者でした。

また、かつてプラハにおいてフス派が隆盛を極めていた頃、ピルゼンでもフス派によるクーデターが起き、ピルゼンの政治はフス派に占領されていました。
ピルゼンラントフリードは、それに対抗する意味もあったのでしょう。ラントフリードに参加した貴族達は、主にピルゼン北部の土地の守りを固めて、フス派を牽制しました。

さて、それとは別に、かつての城伯の土地や城を買い取って、独自の私兵で交易路を支配する者の存在もありました。
それは貴族ではなく、交易によって貴族を凌ぐ程の財を成した大富豪、パビアンコフ家の一族でした。

パビアンコフ家は主にピルゼン南側の土地を購入し、レーゲンスブルク行きの交易路を支配していました。
フス戦争開戦当初、家長は既に故人となり、未亡人であるアンナ(資料によってはカテジナ)がパビアンコフの頭領を勤めていました。
彼女は熱心なフス派信徒で、プルゼニに住む過激派の僧侶•コランダを介して、ヤン•ジシュカらのフス派戦士をピルゼンに招き入れます。

パビアンコフにはある思惑があったのかもしれません。

それは、この時代になると、レーゲンスブルクとの交易が下火になり、北のニュルンベルクとの交易の方が有利になりつつあった、という経済情勢が関係しています。

パビアンコフ家は南側のルートを支配していましたが、ニュルンベルクとの競争にはやや力不足を感じていたのでした。
そこで、フス派の戦士たちをプルゼニに招致し、北側の交易路をカトリック勢力から奪取するか、または通商破壊によってニュルンベルクとの交易路を断つかという作戦を持ちかけます。

ヤン•ジシュカはそれに乗り、条件として武器の生産や軍備•住居の提供などを要求します。
パビアンコフも同意し、以降、パビアンコフ家とジシュカは相互扶助の関係を築いて行きます。

ジシュカが大量配備を目論んだ大砲やハンドガンなどの兵器は、ピルゼンの工房で生産されたと考えられます。
そこで作られたハンドガンはピシューチャラと呼ばれるもので、撃つと笛のような音が鳴るそうです。ピストルの語源とされています。


このようにして、プラハでは戦いきれずに悔しい思いをしたジシュカらでしたが、プルゼニで水を得た魚の如くになりました。
思うような武器を手に入れたジシュカは、その後ネクミェージへと出兵し、多大な戦果を上げて帰還することになります。

しかし。

プルゼニの市民はフス派の人々を疎んじるようになりました。

ジシュカの戦闘で北側の交易路をメチャクチャにされたことにより、北ルートで商売をしていた市民らの生活に多大な悪影響が出たのです。いえ、市民にとっては北も南も関係ありません。街のそばを戦場にされたら、物流はストップして経済が停滞するのです。
プルゼニは商売の街。商売を邪魔する者は、カトリックだろうがフス派だろうが市民は許しませんでした。

プルゼニの大多数の市民の怒りを買い、プルゼニに住むフス派の人々は、女•子供問わずプルゼニを追放されることになってしまったのです。

さらに運の悪いことに、ネクミェージでの敗戦を受け、ラントフリード軍にはプラハから援軍が派兵され、じわじわとプルゼニの周囲を包囲していたのでした。

街の中も外も、今や反フス派の勢力ばかりになっていました。こうなるとさすがのジシュカも戦争どころではなくなります。
1420年の3月、ジシュカはピルゼンラントフリードの代表と会談し、和平を結びます。

和平の条件は、ジシュカはプルゼニに住む全てのフス派を率いてプルゼニを去る。それにあたって、ラントフリード側はフス派の身の安全を保証する。というものでした。

かくしてプルゼニのフス派は、女•子供を含む400名が追放され、プルゼニを去って行ったのでした。その中には富豪パビアンコフ家の頭領、アンナの姿もありました。

彼女は自分の息子らをプルゼニ郊外の砦に避難させ、自身はジシュカと共にプルゼニを去る事を決意します。
その際、換金できる財産は全て銀貨に替えてフス派に寄付し、残った財産は街の広場で全て燃やしてしまったという逸話が残っています。

そして、ジシュカらがプルゼニを去った2日後。

ピルゼンラントフリードに宛てて、ローマから1つの命令書が届きます。

「ジシュカを追撃せよ。byローマ王ジギスムント」

と、その命令書には書いてありました。

和平を結び、道中の安全は保証すると約束したばかりのことでしたが、ローマからの命令書に背くわけには行きません。

ラントフリード軍はジシュカ討伐のため、ボフスラフを先頭にプルゼニから出撃するのでした。
1420年3月25日、ジシュカとボフスラフは再び戦場にて対峙することになります。



フス戦争〜プルゼニについて〜終


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?