ヤン・ジシュカとヤン・ロキツァナ、の話

フス戦争にはたくさんの人物が登場しますが、やっかいなことに名前の被りが多く、特にヤンという名前はしょっちゅう出てきます。ざっと数えただけでも40名はいます。

そのヤン達の中でも、フス戦争で特に重要な役割を果たしたのが、ヤン・ジシュカとヤン・ロキツァナです。

前者のジシュカは軍略家であり、様々な戦いで負け知らずの戦果を上げた武将です。たくさんの勝利を上げるということは、たくさんの人を殺害した人物でもあります。

一方、後者のロキツァナは聖職者であり、自身は人を殺めたりはしていません。それどころか、戦争を未然に防いだり、戦場に躍り出て殺戮を止めさせたり、無血革命を成功させたりと、人命を救う働きに長けた人物でした。

この真逆に見える二人の思想は、同じフス派としてくくることができます。
彼らはフス派の武闘派と、穏健派とに分かれて活動していました。

日本でよく流通しているフス戦争の概要では、フス戦争の後半になるとフス派の中に分裂が生じ、穏健派と武闘派に分かれて争った、と説明されます。

しかし私の調べた限りでは、フス派はその成立時点で穏健派と武闘派にはっきりと分かれており、両者は最初から争っていました。
それが、神聖ローマ帝国が十字軍を編成してチェコに攻めてきたため、フス派の穏健派と武闘派は一時的に休戦・共闘態勢を敷いたのです。

十字軍の脅威が去ると、フス派はまた穏健派と武闘派に分かれて争いを再開させるのでした。

ジシュカは武闘派のリーダーであり、ロキツァナは穏健派のホープでした。
穏健派のリーダーはヤコウベク・ストジーブラという人でしたが、高齢のため前線に立つことが難しく、弟子のロキツァナが穏健派の先頭に立つようになりました。

両者は同じフス派でありながら、その布教活動の方法について相入れず、争いを続けていたのです。

武闘派は「敵対する思想は武力で黙らせる」または「この思想を外敵から自衛するために武装する」という方針で、一方の穏健派は「敵対する思想との話し合いで問題を解決する」という方針でした。

これは現代の日本にも当てはまる対立ではないでしょうか。
例えば外国が武力で日本に攻撃を仕掛けてきたとき、日本国民を守るために武力を行使するのか、それとも、あくまで対話で侵攻を止めさせる努力を続けるのか、といった問題は、現代の日本人が議論しても答えを出すことは難しいでしょう。

それと同じことが、15世紀のチェコでも起きていたということです。

武闘派は、話し合い(交渉)をするためにも相手にこちらの武力を示す必要がある、という主張です。
穏健派は、流血はキリストの求めるものではない、という主張です。

この記事を書いていても、これはいつまで経っても平行線だったろうなぁ、と実感できます。理想としては誰だって流血なんて好まないでしょうけど、理想を語れる程の余裕がない人にとっては、やるかやられるかの話ですからねぇ。

で、この穏健派と武闘派が激突する事態が起こります。

それは1424年のこと。

穏健派と武闘派は、休戦協定を締結していました。
ところが、穏健派の一部が休戦協定を破り、武闘派の軍に対して攻撃を仕掛けます。

この時点で穏健派は一枚岩ではなく、戦争の早期解決のためにはこちらも武力行使をすべきだ、という、いわば「平和的武力解決派」が勢力を伸ばしており、完全平和主義のロキツァナやヤコウベクは穏健派内での発言力を抑えられてしまっていました。

ゆえに平和的武力解決派の暴走を止めることができず、休戦協定を無視した攻撃が開始されてしまったのです。

穏健派の奇襲により、ジシュカの軍はピンチに陥ります。
しかしジシュカ救援の援軍が駆けつけ、戦況は逆転してジシュカの勝利となりました。(マレショフの戦い)

この戦いで敗北したことにより、穏健派の平和的武力解決派は権力を失い、ジシュカに投降します。

しかしジシュカは休戦協定を破って攻撃してきた穏健派を許すことができないと言い、穏健派の拠点となっているプラハを滅ぼすために進軍を開始しました。

プラハに残っている指導者は、休戦協定破棄に最後まで反対していたヤコウベク・ロキツァナ師弟でした。

その頃のプラハの人々は自棄になっており、ジシュカと決戦する意思を示しました。しかし、ロキツァナが立ち上がります。
私が交渉してくるから、皆は落ちついて待っていて下さい、と。

ロキツァナは、プラハを包囲しているジシュカの陣地に単身で赴き、ジシュカとの会談を要求しました。

そして見事にジシュカを説得し、その軍をプラハから撤退させることに成功したのです。

……というエピソードを、私は昨夜遅くまで翻訳しておりました。

もう、興奮しながら翻訳していまして、気がつけば夜中の3時を過ぎていました。

この、マレショフの戦いから成る一連の流れは、前から知っていたことでした。
しかしどういった経緯でジシュカがプラハを攻めようとしたのかについては、不明な部分が多くて分かりませんでした。

今回の翻訳で、ジシュカとプラハ(穏健派)がもともと休戦協定を結んでいたこと、そして穏健派側が先に休戦協定を破ったことなどが判明したので、物語のつじつまが合うようになりました。

ずっと知りたかった謎が解けた瞬間でした。

ここでマウントを取ります。
日本人で、ここまで調べた人はいないでしょう。

早く書籍として世に送り出したいと思うばかりです。

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