C20 -鼓-
部屋に一人でいて何もしない、ということに、最近はすっかり慣れた。
実際、この部屋で暇つぶしになることは何もない。担任教師が家まで持ってきた一度も開いていない教科書とか、親が買ってきた少年少女のための単行本とか、そういうのは、もうこの部屋にはない。全部窓から投げ捨てた。
パソコンもテレビもスマホも元からない。あとは蹴破って穴だらけにした壁と茶色のカーテンが年中覆っている窓を眺めるぐらい。でもそれはこうやって、座ってるだけで見えてしまうというだけ。
昼下がりの太陽は今日もカーテンの外で熱心に輝いているみたいで、カーテンはピクリとも動かないけど、光がどうしても隙間から入ってきて、そうやって家から出てこない私に不平を言っている。
前はそれがとても嫌で。不平を言わない無口な雨が降っている時はほっとしたものだけど、こうしてセンスのかけらもないデザインの学習机に座って、死んでしまうまで何もしない、と決めた今は、担任気取りの太陽も、母親みたいにじんめりした雨なんて大した問題じゃない、心底どうでもいいことだと思えてくる。
何もないというのはいいことだ。こうなって初めてわかったこともある。
今まで私は部屋から出ない理由をこう説明してきた。
頭の悪い同級生たち、誰とも仲良くなろうとしない私に向けられる敵意と蔑みの眼差し、遠巻きに見ている大半の男子は憐憫してしかめている、私の顔を見て、元気づけるように微笑んでくれる男子さえいる。だけど連中に関しては例の野暮ったい黒色の制服ズボンのポケットからひょろひょろと伸びているグロテスクな管が、私の膣があるらしき部分を探してゆらゆら揺れているから、私にとって何も関係のない生物だとわかる。私がそっちに興味があるのなら、あれはあれでそこそこ使える連中なのだろうけど。
ある日は、机が無数の落書きで埋まっていた。教師が入ってきて、私の机を一瞥すると、すぐに視線を戻して教卓の後ろに収まった。女子生徒が華やかな声で着席を点呼して。私は落書きだらけの机に座る。幸い椅子に細工はなかったようだ。安心していると、机の中から液体が染み出してきて、私のスカートを濡らす。後ろのほうで、女子のグループの小さな声で笑っているのが聞こえる。
まるで自動機械だなあ、と私は思う。気の利いたことは何もできない産業ロボットのいるベルトコンベアを私が流れていく、ロボットは1工程につき1つ、私の心に失敗や後悔、疑問、みたいなもの載せていく。刺身にタンポポを載せるような自然な動きだ。ベルトコンベアが終わる頃、チャイムが鳴って、私は鞄を持ち、家に帰っる用意をする。私に載せられた様々な不名誉は、例えば悲しみや怒りみたいなちょっとした感情を大げさにのり付けすれば、両親や訪問してきた担任教師を仏頂面にさせるのに十分な効果があるだろう。になっている。工場が作っている物といえば、おおよそこのようだ。
いじめ、人権の侵害、そうしたものの被害者である自分を助けることができないひ弱な大人たちを私と同じ気持ちにさせてあげるぐらい造作もないことだったし、私はそうできるだけの物語と正当性のどちらも持っていた。
でもそれだって、大して意味のあることではなかった。私はその生活に怯えてはいるけど、その怯えが明日突然消えてなくなったとしても、今私を苛んでいる気持ち悪さ、もっと言えば、この外に広がる偽物の世界や偽物の人間に合わせることに比べたら、それは本当に取るに足らないことなのだ。
戦わない私を、助けを求めない私を、いつかその魂胆に気づいたこの世界の番人が、部屋にやってきて私を罰するだろう。自分の首が血しぶきを上げて胴体から切り離されて、私はその時に何にでもなくなってしまう。でも、私はその時まで、こうして、じっと待っているつもりだ。偽物の世界にしてやれることなんて一つだってないし、私がこの世界に存在し続ける理由は一つもない。排除されるなら、それはそれでいい、とさせ思っている。
なぜなら私は本当の世界のことをまだ覚えているからだ。
カーテンが少しだけそよいで、漏れ出た光が荒れ果てた部屋のカーペットの染みを照らす。
窓は閉めてある。変だなと思ったけど、無視した。
またカーテンが揺れた。遠くでドラムの音がする。かっこいい音じゃなくて、ずっと昔に路上で聞いたアマチュアミュージシャンのバンドみたいに、ただ力まかせにドラムを叩いている、何かが破裂するような音だった。
隣の家にドラマーでも越してきたのかもしれない。あそこはずっと空き家で、お父さんは放火でもされたら大変だ、ってブツブツ言っていたけど、これはこれで違う苦労が増えたような気がする。
カーテンがまた動いて、今度はだいぶ部屋が明るくなった。ドラムの音がカーテンを揺らしているみたいで、私はようやく不思議に思えてきた。
私は立ち上がって、カーテンをぎゅっと手で握って動かないようにすると、そっと隙間から隣の空き家を見てみた。
ニ階にある私の部屋の窓の正面は、隣家の二階の窓だ。このへんは全部建売の住宅だから、きっと家の中も似通っている。
隣家の窓にはカーテンがついていなかったけど、長い間空き家だったせいで、埃で曇っているし、外は午後の日差しで明るくて、暗い部屋の様子はさっぱりわからなかった。
ドラムの音は続いている。それにさっきより少し近くなった気がする。やっぱり隣の家、それも正面の窓から聞こえてくる気がした。
私はあたりを見まわしてみる。普段から家の前の道路には人通りが少なくて、車もあまり通らない。ドラムの音を不思議に思った近所の人が出てくる様子もないようだった。
最後にこうやって外を見たのはいつだったかな。その時より近所の建物が十年は古びてしまっているように見える。
私はなんとなく、懐かしい気分がして、久しぶりに外を歩きたくなった。ドラムの音が本当に隣の家からしているのかも気になった。
パーカーのフードを目深くかぶって、パサパサになった髪を押し込む。少しだけだから下はジャージのままでいい。何でもないことのように、私は部屋を出る。少し様子を伺ったけど、お母さんは出かけているみたいで、家の中からは音がしなかった。
私は素早く階段を降りる。万が一お母さんがいたら困るから、リビングを見ないようにして玄関へ。
ピンクのスニーカーが、ずっと前に脱いだ時のまま、かかとがへこんだ状態で置いてある。いつからこのままなんだろう、と思いながら私はそれを履いて、ドアを開けた。
ドラムの音が激しくなった。さっきまでのリズムに違うリズムが重なったみたいだった。もしかしたら私が出てきたせいなのかもしれない。
久しぶりに出た外は明るくて、暖かくて、気持ちの良い風が吹いていた。空が高くて、雲がゆっくりと動いている。
誰も歩いていないし、車も来ない。ドラムのリズムが太陽の光の中を飛び跳ねているようで、とても気分が良かった。こんなにも世界は綺麗だったんだ。と私は思う。
歩き方を思い出すようにゆっくりと私は隣家に向かう。玄関のドアは開いたままになっていて、薄暗い廊下とその先の階段が見えた。
ドアに近づくと、はっきりとわかった。やっぱりこの家の二階でドラムが鳴っている。リズムはとても複雑になって、三つぐらいのリズムが組み合わさっているように思える。どうやってこんなふうにドラムを叩けるのか想像もできなかった。
いつのまにか足が隣家の中に踏み出していた。中に入ってドラムをずっと聞いていたいとも思ったけど、さすがにそれはまずいと思った。人の気配は全然しないけど、二階にはドラムを叩いている人がいるわけだし。
今日はこれでいい。私は心の中でそうつぶやくと、出口へ振り返った。
その時、ドラムの音が止まった。