原作者はなぜ大切なのか?

原作者がなぜ大切かを明確に言語化して説明したのでぜひ共有して下さい。

創作の世界では、個人の感性が非常に大切にされますがこの理由を説明できますか?

たとえば、ピクサーは合議制で物事を決めている事は有名ですが、実は物語の核心部分は、監督の個人的な感性に根ざしているそうです(ピクサーの書籍に書かれていました)。そのため、合議制を取り入れても監督が不要になる事はありません。合議制だけで作れるなら監督はとっくに不要になってるはずですよね。

多くの創作の現場では、集団でアイデアを出し合っても、結局のところ最終的な物語の方向性は、個人の感覚に大きく影響されます。

それは何故でしょうか?

例えば、白いボールと緑のボール(のようなもの)を思い浮かべてください。

「緑と白のどちらが白いか?」と言う問いには、ほぼすべの人が同じ答えを出せます。こういった判断は合議制で特に有効です。ピクサーの合議制は物語のエラーとなる矛盾を潰すために行われているそうです。

ところが「緑と白のどちらが正しいか」と言う問いはどうでしょうか?こういった問いには明確な答えはないですよね。ここで合議制を用いても混乱するだけで結論は出ません。多数決をしても正しい答えは出ませんから、意味はありません。つまり誰か個人の答えに依存するしかないのです。

創作の世界では、こういった答えのない問いに一貫性を持って答え続ける必要があります。これは原作者と言う一人の人間にとっては簡単ですが、他の人が代わりを務めるのはとても難しいんです。

だんだん分かってきたと思います。

原作者の感性やビジョンは膨大な深層心理の蓄積から発生します。同じ人間は一人としていません。原作者の出す答えは、独特で、他の誰も完全に再現し続ける事はまず不可能です。

これが作家性の正体です。

別の人が原作をいじると、どうしても違和感が出るのは「答えのない問いに答える」ための一貫性が乱れるためです。

ここで少し話題を変えてAIの話をしてみたいと思います。AIを使った創作も似たような原理で作家性に相当する作品を生み出す事ができません。

今のAIは人間の感情や深層心理を完全に理解し、表現する事ができません。そもそも深層心理は80億人全ての人類で異なるので、AIに個性を共通パターンとして学習させることが出来ません。

人間の個性をAIが再現しようとすると、あり得ないレベルでコストが増大し、利便性が低下するだけなんです。AIには個性がないのではなく、人類に共通する特徴を学ばせたのがAIなのです。AIが特定の個性を学んでしまうケースもなくはありませんが、それをAI界隈では過学習といってトレーニング時のエラーと定義しています。

なので、人間の補助というAIの用途を優先するならば、人間の様な作家性をわざわざAIに持たせるのは本末転倒なのです。

AIは論理的な判断やデータ分析、多くの人に共通するパターンの制作には長けていますが、作家性の強い創作の核心を担う事は、経済的にもほぼ不可能なのです。

つまり、話を原作者に戻すと、言語化出来ないほど膨大な情報を持った人間の深層心理をもとに、答えのない問いに一貫性を持って答え続ける事が、原作者の役割であり、その作家性を人々は娯楽として楽しんでる事が見えてくると思います。

ここで注意して欲しいのは、個性や作家性は誰もが持っていますが、ほんとうに一貫性のある深層心理由来の創作物を生み出すのはかなり難しい事です。

NHKの宮崎駿監督のドキュメンタリーでは、映画制作中に宮崎監督が少しおかしくなってしまう所が公開されました。深層心理の更に底にある蓋を開けて創作する(と本人は表現されています)と少しおかしくなってしまう事を宮﨑監督は告白されています。

深層心理は自分ではコントロール出来ず、創作のために深層心理にアクセスする行為を続けると精神的にかなり危険な状態になってしまう事もあるのです。

自分自身でもコントロール出来ない深層心理から、誰もが楽しめる娯楽作品を生み出す事は、まさに天才的な能力なのです。

この仕組みを理解すれば、不本意な映像化をされる時の原作者のもどかしさが分かると思います。そして、なぜ脚本家が原作者の意図を完全再現出来ないかが理解できると思います。

脚本家視点で言えば、完全に原作通りやるのは簡単ですが、原作にない続きの物語や不足するシーンなどを原作の完全再現として書くのは難しいのです。なので、いっそのこと原作を全く違う作品として再構築したいと言う脚本家の気持ちもわからなくはありません。こういった脚本家の改変に対する見解は、原作を軽視したからではなく、原作再現が難しいことを理解したうえでの発言でもあるのです。

そのため、原作者側から改変をしてほしいというお願いをする人も居るわけです。この問題の仕組みを理解せずに、原作者の軽視だとか、脚本家の軽視だとか、第三者がSNSで論争をするのはナンセンスです。

この辺りはどちらが正しいかは、きちんと最初に話し合って決めるべきだと思います。何らかの都合で改変しないと映像化できないケースもあるでしょう。その場合はちゃんと原作者がなっとくできる形で最初に説明するのが良いと思います。

もちろん、創作物には、ボールの例え話で言うところの、誰もが共通する認識も重要です。一般的に、多くの映像作品は分業によって制作されます。コアな部分がしっかりしていれば、共通認識部分のクオリティを集団制作でアップさせることが出来るのです。スピンオフや二次創作もこういった共通認識によって再現されます。

ガンダムやスター・ウォーズシリーズのように、細部まで歴史や設定、作品全体のコンセプトが固まってくると多数のスピンオフが作られるようになります。しかし、各作品には監督や脚本家によってある程度、個人の感性がベースにあることが前提です。

もし、仮にコアな部分までふくめて、すべてを人類の共通認識のみで構成した作品を作ればどうなるでしょうか?

おそらく、オリジナリティがなく薄っぺらい何の面白みもない作品になってしまうでしょう。

AIがゼロから創作した物語が凡庸になるのも同じ原理です。

AIには個人の深層心理に根差した部分を完全に再現する事は簡単には出来ないのです。もし、それが出来るとしたら全人類の深層心理をすべてシミュレーション出来た時ですが、おそらくかなり遠い未来の話だと思います。その頃は、AIもSFのアンドロイドのように個体として自立し、人間と見分けがつかなかくなっているかもしれませんね。

創作に関わるすべての人は、この仕組みを理解して、原作者を尊重した創作活動を肝に銘じて下さいませ🙇‍♂️
また、AIが完全に人間の仕事を奪う事はなく、便利なツールとして人間と共存する方が良い事を理解して、AIを極端に忌避することなく、うまく創作に活用して下さいませ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?