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パトリック・ヘンリーについて
こんにちは。映像作家で小説家の榊正宗です。
何もしたくないときってないですか?
1TODO処理したら10分休憩というルールにしているので、なにもしたくないときも、とりあえず、やるべきことはやれてます。
ただ、最近は、「無理はしない」ことを大切にしています。最近は若い頃と違って、無理をすれば体調を崩してしまうことが増えたからです。無理をせず、それでいて、なにもしたくないときでも、「1TODO処理したら10分休憩というルール」のおかげで、最低限のことは出来るようになりました。
しっかり休むことが大切だと思います。
さて、今日のテーマは「パトリック・ヘンリーについて」です。
🔳パトリック・ヘンリーについて
パトリック・ヘンリーは、アメリカ合衆国の弁護士、政治家です。アメリカの独立や、憲法の内容に強い影響を与えた人物です。
スコットランドからの移民で、バージニア植民地の農園で生まれました。
パトリック・ヘンリーは、1736年に生まれました。パトリックの生まれたバージニア植民地は、1776年のアメリカ独立宣言により、アメリカ合衆国最初の13州の1つ、バージニア州となります。
パトリックが40歳になるまで、バージニアはイギリスの植民地だったわけですね。
パトリックは18歳で結婚し、6人の奴隷つきの300エーカーの農園を手にしますが、農園経営は向いてなかったらしく、2年後には農園を売却してしまったそうです。
🔳弁護士として名を馳せる
24歳で弁護士の口頭試問に合格します。3年で1185件もの訴訟を処理し、ほとんどが勝訴だったそうです。27歳のときには、その名がバージニア全域に知れ渡るようになり有名な教区牧師の訴訟申し立て事件の弁護士となりました。これは牧師の給与が不当に支払われていることに対する裁判でした。この後、パトリックは、バージニア植民地でイギリスの支配に異議を唱える人々の代弁者となっていきます。
🔳アメリカの独立につながる有名な演説
パトリックは、39歳のときに、バージニアはイギリスの支配に異議を唱えるニューイングランド地方の抵抗運動に参加すべきだと訴えて、有名な演説をします。
鎖と隷属の対価で購われるほど、命は尊く、平和は甘美なものだろうか。全能の神にかけて、断じてそうではない。他の人々がどの道を選ぶのかは知らぬが、私について言えば、私に自由を与えよ。然らずんば死を与えよ。
特に最後の最後の「自由を与えよ。然らずんば死を」という言葉は歴史に記憶される名文句となりました。
🔳憲法につよい影響力
この後、アメリカは独立戦争を経て、アメリカ合衆国憲法を制定します。
しかし、パトリックは、この憲法に不満がありました。
パトリックは、自らの影響力を行使して、アメリカ合衆国憲法に人民の基本的人権に関する宣言を追加させたそうです。この条文が追加されてからは、憲法の支持・擁護にまわり、強力な中央政府の必要性を主張する連邦党の支持者となったそうです。
1799年、パトリック・ヘンリーはバージニア州のレッドヒル農園において、63歳で亡くなりました。パトリックの遺体はレッドヒル墓地に埋葬されました。
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