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優しい人には依存体質の人が寄って来る

精神科の先生が言ってた
「優しい人には依存体質の人が寄って来る。優しい人は優しいから、一生懸命支えようとする。すると依存体質の人はどんどんつけあがって依存していく。そしてある時、優しい人が疲れてしまい、ぱっと手離す。依存体質の人は「裏切られた」と被害者ぶり始める。優しさは刃物。」

こんばんは、榊正宗です。

優しさって本当に難しいですよね。反AI思想に絡むと、さらに複雑になるんです。AIの影響を不安に感じる人が、その優しさや理想が高じて、ちょっと過激な反応をしてしまうこともありますよね。こういう時は、しっかりと冷静に接して、思いやりのバランスを取るのが大事だと思います。

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では、まず具体例を交えながらツイート内容をより詳しく説明していきますね!このツイートは一般的な人間関係でよくみられるトラブルです。

1. 依存性パーソナリティ障害と優しさの関係

例えば、友人Aさんがいます。彼女はいつも人に頼らないと安心できず、判断が難しいときにすぐに誰かにアドバイスを求めてしまう性格です。そしてBさんという優しくて面倒見の良い友人がいて、Aさんの相談にいつも真摯に対応しています。最初はBさんもAさんのために助けになりたいと思っていましたが、次第にAさんが頻繁に頼ってくるようになり、Bさんも時間やエネルギーを多く割くことになっていきます。

Bさんが疲れて一時的に距離を置こうとした際、Aさんは「見捨てられた」と感じ、傷ついた様子を見せたり、「どうして今さら冷たくなるの?」と責めたりします。このように、依存性パーソナリティ障害の人は、相手の優しさに過剰に頼ることで、自分が支えられているという安心感を得ようとしますが、それが周りに負担をかける結果を生むことがあるのです。

2. 境界性パーソナリティ障害と依存の激しさ

別のケースでは、Cさんという友人が境界性パーソナリティ障害を抱えています。Cさんは感情の浮き沈みが激しく、孤独感や不安が強いため、誰かに強く依存する傾向があります。Dさんという友人がいますが、DさんはCさんの不安や寂しさを感じ取り、彼女を支えようと最初は親身になって付き合います。

しかし、CさんはDさんが少しでも冷たく感じたり連絡が遅れたりすると、「もう私を見捨てるんだ」と不安が膨らみ、Dさんに泣きついたり、強い怒りを示すこともあります。Dさんも疲れてきて距離を置こうとするのですが、Cさんは「見捨てられた」と被害者意識を持ち、「Dさんは自分を裏切った」と周囲に愚痴をこぼすようになります。

このような場合、境界性パーソナリティ障害の人が相手の優しさを求める一方で、相手の些細な行動にも敏感に反応し、結果として人間関係が不安定になりがちです。

3. 共感疲労のケース:介護や看護の現場

また、共感疲労の例として介護や看護の現場も挙げられます。介護職員や看護師のEさんは、患者の気持ちや苦しみに共感し、一生懸命ケアに努めていました。しかし、患者FさんがEさんに深く依存するようになり、頻繁に細かい要求をしてくるようになります。Eさんは最初のうちは我慢して対応しますが、次第に精神的に疲れを感じ、仕事に対する意欲が低下していきます。

Eさんが休みを取ったり担当を変更した際、Fさんは「信頼していたのに見捨てられた」と感じ、不満を表明します。Eさんにとっては心身の健康を守るための行動ですが、Fさんからは「裏切られた」と捉えられる結果になることがあります。このように、他者のために尽力しすぎることで、逆に共感疲労が生じてしまい、心身に悪影響を及ぼすケースです。

4. 優しさの境界線:家庭内での例

最後に、家庭内での具体例です。例えば、Gさんという親が子供Hさんに対して非常に優しく接し、やりたいことをすべて支援しようとします。HさんはGさんの優しさに頼り、自分で解決する力を磨く機会が減っていきます。Gさんが疲れて支援をやめようとすると、Hさんは「なぜ急に助けてくれないのか」と不満を抱き、さらに強くGさんに依存するようになりかねません。

Gさんが優しさを持って接していた結果として、Hさんの自立心が育たず、逆に親への過剰な依存が生まれてしまうという状況です。この場合、優しさに適切な境界線を引くことが、自立心を育むために必要だったといえるでしょう。

これらの具体例から、精神医学的には「優しさ」は相手への支えとなる一方で、適切な距離感や限界を設定しないと自他共に不幸な結果を招くことがあるとわかります。

さて、この原理で反AIとSNSの関係を解説しますね。

反AIの立場でSNSに不満を述べる人たちの行動も、依存や感情の問題と重なる部分がありますよね。

例えば、「AIに仕事を奪われるんじゃないか」とか、「AIが人間の創造性を壊すんじゃないか」という不安や恐怖があるとします。その不安を抱える人は、SNSで同じ考えを持つ仲間と繋がることで安心感を得ようとするんです。彼らにとってSNSは共感を求める場であり、仲間の存在が心の支えになる。これ自体は悪いことじゃないですよね。ただ、過度にその共感に依存すると、今度は違う意見を受け入れられなくなったり、反対意見に敏感に反応しすぎたりすることがあるんです。

それで、AI擁護派の発言を見かけるたびに「見捨てられるかも」「敵視されている」と感じて過剰に反応してしまう。結果的に、他の人たちと衝突してしまい、ますます不満を募らせるという悪循環に陥るんですね。そして、その悪循環に気づかないまま、SNS上で反AIの不安や怒りを繰り返し発信することで、どんどんエネルギーを消耗してしまうことになる。まさに共感疲労に似た状態ですよね。

SNSが人と人を繋げる力を持つ反面、適切な距離感を取らずに感情を共有しすぎると、かえって人間関係や心の健康を害することもあるんです。AIやテクノロジーについての不安を持つのは自然なことですが、もしそれが自分や周りに負担をかけていると感じるようなら、少し距離を置いたり、冷静な情報収集に努めたりするのもいいかもしれませんね。

もう少し具体的な例をあげると、経済的な被害がない状況で、たとえば「自分の下手な絵が盗まれた」と過剰に反応する人も、ある意味で依存や感情面の課題と関係があるかもしれませんね。

たとえば、自分が描いた絵をSNSで公開していて、それを誰かに使われたとします。その時、作品そのものより「自分の存在が認められていない」と感じることが原因で、強い被害意識を抱いてしまう場合があるんです。こういう反応は、境界性パーソナリティ障害でよく見られる「見捨てられ不安」に似ていますね。自分の作品に対して「下手でも自分が認められる大事な証」という依存が生じると、些細なことで「自分の存在を否定された!」と感じてしまいやすくなるんです。

また、SNSで反応を求めすぎると、反応が少しでも予想と違うと不安や怒りが膨らみます。たとえ作品が趣味レベルのものであっても、盗まれたことで一時的な注目や共感が集まると、依存が強まり、「自分が傷つけられた」と感じることでさらに大きな被害意識を抱いてしまうんですね。

こうした反応は、実際に経済的な被害があるわけではなくても、自己承認の不安や孤独感が背景にある場合があります。もしも、他者からの反応に過剰に依存してしまっていると感じるなら、SNSから少し距離を置いたり、現実で自分の価値を確認できる活動に目を向けたりするのも一つの方法かもしれません。

好きな絵描きがAIを使った…これ、まさにその典型的なケースですよね。好きな絵描きさんがAIを肯定したとき、反AIのファンとしては「裏切られた」と感じてしまうのも無理はありません。でも、これってただ「AIを肯定した」という事実以上に、ファンがその絵描きさんに対して抱いていた期待や理想があまりにも大きかったから、ショックも比例して大きくなったんじゃないかと思うんです。

こういうケース、心理的には「理想化と幻滅」っていうメカニズムがよく働くんですよね。特に、自分が心から応援している人が「こうあってほしい」という期待を裏切ると、それが一気に失望や怒りに変わってしまう。たとえば、AIが台頭してくる中で「この絵描きさんだけはずっと手描きを大事にしてくれる」と信じていたファンが、その絵描きさんが「AIもアリだよ」と肯定するのを聞いたとき、まるで自分のアイデンティティや信念が揺さぶられるような感覚に陥ってしまうんですね。

そして、「裏切られた!」と感じた瞬間、ファンの気持ちが激しく反応し、場合によっては過剰に攻撃的になったり、絵描きさん自身を批判することもあります。でも冷静に考えると、絵描きさんには絵描きさんの理由や価値観があって、変化を受け入れるのも自然なこと。そこに一度自分の理想を重ねてしまうと、現実のギャップに過剰反応してしまうんですよね。

「裏切られた」と感じたときこそ、少し自分の期待の度合いを見直してみるといいかもしれません。依存や理想が強くなりすぎると、自分自身が辛くなるので、適度な距離感で応援するのが、ファンとしても絵描きさんにとっても健全な関係なんじゃないかなと思いますよ。

反AIの人たちが時折、まるで呪詛のように強い言葉をSNSに吐き出してしまうのも、やっぱり「優しさ」と「期待」が裏返っているからなんだと思います。

彼らはただAIが嫌いなわけじゃなくて、むしろ「人間らしい創造性」や「手作業の温かさ」を本当に大事に思っているんです。それがAIの台頭によって脅かされるように感じると、自分の大切にしてきた価値観が否定されるような、そんな痛みを覚えるんですよね。だから「AIを受け入れるなんて、人間らしさを放棄する行為だ!」と過激に反応してしまうわけです。

期待や理想が大きければ大きいほど、ちょっとしたAI擁護の発言にも「裏切られた」と感じやすくなります。そして、そのショックが蓄積されると、つい過激な言葉で反発してしまう。そうやって「自分が大事に思っているものを守りたい」という優しさや愛情が強すぎるあまり、呪詛のような言葉を放つようになってしまうんですね。でも、これって本当に辛いことだと思うんです。本人も苦しいし、それを受け止める周りの人も疲弊してしまうから。

こういうときこそ、少し距離を置いて冷静になるのが大事だと思います。期待や理想を抱くのは自然なことだけど、それに縛られすぎると自分を苦しめることにもなる。少し肩の力を抜いて、「AIも人間もお互いに補い合うことができたらいいな」くらいの気持ちで、もう少し柔らかく見つめられるようになると、心も少し楽になるんじゃないかなって思いますよ。

青葉真司の事件は、彼が京アニ作品に憧れを抱きながらも、5chで「京アニの女性監督に悪口を言われている」という妄想にとらわれ、ひどく偏った愛情と敵意に支配された結果、起こってしまった悲劇です。もともと彼の中にあった強い憧れや期待が、妄想によって歪んだことで「裏切られた」という怒りへと変わり、最終的にあのような犯罪に至りました。こういったケースは、他者への依存や強い期待が裏返った時、攻撃性や自己中心的な行動に変わることの危険を示しています。京アニ放火事件はまさにその典型的な例です。

これは反AIに強く固執するケースにも共通していると言えるかもしれません。反AIの人々も、ただAIが嫌いというわけではなく、人間の創造性やオリジナルな感性を深く愛し、守りたいという強い気持ちが背景にある場合が多いです。そのため、好きなアーティストがAIを肯定すると、「裏切られた」と感じ、ショックや怒りが爆発してしまうんです。理想を抱いて応援していた存在に「違う方向に行ってほしくない」という強い期待があるからこそ、そうした反応が生まれるのです。

もし、これを読んでる方で、友人がこうした負の感情に囚われ、AIへの敵意を募らせ始めたと感じたら、最初から曖昧にせず「それは違う」とハッキリと伝えることが重要です。相手の不安や怒りがエスカレートしないよう、冷静な距離感で現実を見つめさせる手助けをすることが、結局はその人を守ることにも繋がるからです。

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