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美しき敵対者〜プロイセン王妃ルイーゼ〜

3月10日は、プロイセンの王妃、ルイーゼ・アウグステ・ヴィルヘルミーネ・アマーリエ・メクレンブルク=シュトレーリッツ大公女(1776年3月10日 - 1810年7月19日)が生まれた日。


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グリーンビューティ®研究家の青木恵と申します。

ここでは、貴族、王族、名を残した方々の生涯、成し得たことをアップしています。
聖書にある「すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、さらに多く要求される」(『ルカによる福音書』12章48節)をベースにしています。

先人がどのような環境で生まれ、何を学び、どんなことを残したか、そんなことを書いていけたらいいなと思っています。

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国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世の妻としてプロイセン王妃であり、あのナポレオン一世に直談判したことで、プロイセンの国民の士気を上げた。

現在でも、ドイツで最も人気のある伝説的な王妃として知られている。初代ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世の母。

【生い立ち】

メクレンブルク=シュトレーリッツ公カール2世(後のメクレンブルク=シュトレーリッツ大公)の四女。プロイセンの宮廷の規則やマナーに対し、自由奔放に振舞ったお姫様。それまでのプロイセン王家ではいなかったタイプの女性。

【王妃として】

陽気で気さくな親しみやすい人柄、そして美貌とそのファッショナブルなセンスは、王妃になってから国民にすぐに受け入れられた。

さらに夫の国王フリードリヒ・ヴィヘルム三世は、公妾を取らず、円満な夫婦関係だった。

シラー、ジャン・パウル、ハインリヒ・フォン・クライストなど、当時の有名なドイツ文学者達との交流も。

【ナポレオンへの抵抗】

何よりも彼女の存在を伝説的にし、圧倒的に人気を高めたのは、フランスのナポレオン軍の相次ぐプロイセンの領土侵攻に対し、毅然とした態度を示し、ナポレオンに抵抗し続けた彼女の姿勢だった。

ドイツの諸邦国全体が、存亡の危機に晒されていた時代。ナポレオン1世のドイツ進攻により、しだいにドイツ方面に侵攻してくる脅威。

王妃ルイーゼはドイツ方面にも侵攻していくナポレオン一世に対して、敢然と抵抗の姿勢を示した王妃としても知られている。

また、このルイーゼの姿勢にナポレオン1世は深い感銘を受け、「美しき敵対者」「プロイセンの雌豹」などと評したそう。

多くのプロイセン国民達から彼女は熱狂的な支持を得た。肺炎により34歳で亡くなった際は、多くの国民が嘆き、悲しんだという。


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