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原節子と並んだ幻の女優

1月4日は、原節子と並んだ幻の女優、桑野 通子が生まれた日。(1915年1月4日 - 1946年4月1日)享年31歳。

代表作は『有りがとうさん』『淑女は何を忘れたか』。

皆様、いつもありがとうございます✨
グリーンビューティ®研究家の青木恵と申します。

ここでは、貴族、王族、名を残した方々の生涯、成し得たことをアップしています。
聖書にある「すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、さらに多く要求される」(『ルカによる福音書』12章48節)をベースにしています。

先人がどのような環境で生まれ、何を学び、どんなことを残したか、そんなことを書いていけたらいいなと思っています。

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東京市芝区三島町8番地(現・港区芝大門一丁目あたり)でトンカツ屋を営む父・半二郎、母・よしの長女として誕生する。

4歳で母・よしが死去。1932年3月、三田高等女学校(現・三田国際学園高等学校)をトップクラスの成績で卒業後、森永製菓に入社し初代スイートガールとしてPRのため、全国の百貨店やキャンディーストアーを巡る。

1934年、赤坂溜池のダンスホール『フロリダ』で 人気ダンサーとして働いているときにスカウトされ松竹へ入社。同年11月封切の『金環蝕』でデビュー。

当時非常に珍しかった小顔、メリハリの効いた細いウエスト、細長い手脚を持ち、さらにその美貌が評判となり、スカウトされ活躍した松竹のトップスター。
その期間はたった12年。愛称はミッチー。

映画界に入る前からその美しさは、飛び抜けており、三田高等女学校を卒業した後、森永製菓の初代スウィート・ガールとして活動し、赤坂溜池のダンスホール「フロリダ」のダンサーに転身、客が押し寄せるほどの売れっ子だったそう。


高峰三枝子や三宅邦子・高杉早苗らと共に戦前の若手銀幕スターとして一翼を担った。


一方、私生活は、8歳で関東大震災にみまわれて家を焼かれ、美貌と実力でスターになった。妻子ある男性を愛し、娘を産んだものの、終生結婚することはなかった。


戦後、日本映画の黄金時代が来る前、第二次大戦が終わった直後、撮影中に子宮外妊娠による失血で亡くなった。


作家の藤沢周平も、当時、原節子と並んで飛びぬけて日本人ばなれしていたと回想していた。


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