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ヒュドラのチェンバロ【9】 クトゥルフ・バロック、あるいはクトゥルフ・ロココ・ゴシック


 稀代の演劇狂にして音楽狂、その生涯の大半をロシアの外で過ごし、フランスやイタリア、中東、インドといった賑々しい街並みといらか屋根と伽藍のあまねく優美をくまなく旅したニコライ・ボリシェヴィッチ・ユスポフ公爵は50歳の時、地下ふかくエジプトの天球とドイツの樹林の根っこを繰り広げた冥窟の神殿(※)の奥底で、"ご神体の刻印"を埋め込む複雑な手術を受けたのだ。大宮殿をかまえる都市要塞劇場の領地を手に入れたときに、第五元素のエレメンタルな全一性を奏でるために。
 ロシアに帰還し、帝国の顕職を得、60歳になった1810年にゴリツィン公爵家から、アルハンゲリスコエの領地を245,000ルーブルで手に入れると、明媚の限りを尽くす景色の中心で満々と湖水をたたえる、水の上を歩いてみせた。湖は、大理石のヴァチカン聖水盤に奇跡が浮かび上がるように、ユスポフ家当主である半神の足もとの水面に、アルハンゲリスコエA r c h a n g e lを映し上げ、楽園的で、力強く調和に満ちた、大天使ミカエルの決然たる面構えをさらした。腹の内側から、"ご神体の刻印"が、小さくて強烈な光を輝かせた。 

 70歳になったら生き神になるという目的意識をもっていたニコライ・ボリシェヴィッチ公は、"神像"の乗り物である輿こしを造らせた。時が訪れると、生々しい感情をもたない暗殺者が崇拝する邪神のような半神は、ソロモン王の御輿King solomon's  palanquinを真似た椅子輿こしに乗って貴婦人の散歩よりもゆっくりと歩んだ。ユスポフ家に仕えるモンゴル武人の槍と刀の手練れ一個聯隊れんたいが椅子輿こしの左右に付き従い、武装の抜き身の穂先ひとつひとつに、刻印の光が灯っていた。椅子輿こしの満艦飾には人界と天界と魔界の折衷様式の飾りつけが施され、ニコライ・ボリシェヴィッチ公のひたいの眼の光に感応した輝きに覆われていた。



 ロマノフ家の皇帝家系図、複雑のきわみをつくし破綻する一歩手前で輝きを咲かせる調和を、ユスポフの家系図は凌駕りょうがし、アッザートフの家系図の、牧羊神の猥らな浮き彫りが跋扈する笛の旋律が螺旋文様をえがき旋回奏楽と一体になり、円陣が、液状に黒光りしたり、虹光りになったりしながら、際限もなく膨張するのが止まらないのだ。

 81歳になったニコライ・ボリシェヴィッチ公は、在る時から、一日の大半を、たくさんのチェンバロの曲を聴いて過ごすようになった。当然ながら、ニコライ・ボリシェヴィッチ公が聴いている音楽を奏でているのは、ヒュドラのチェンバロではなかった。
 ニコライ・ボリシェヴィッチ公は、トリュトンが放つ海水のシャボン玉のように極彩色をはなつ奏楽はすべて、海の泡のように白い距離から海岸に横たわっていて、そこから完璧な金星が出現するのを待ち続けていたのだ。昇り出てくる姿が光を放つと、蒼褪めた大きな瞳を通して、刻印の光と交わる。
 チェンバロが奏でる曲は、すべて17世紀と18世紀の音楽だった。わたしくと、かつて一緒に録音で共演した指揮者でカウンターテナー歌手のルネ・ヤーコプス氏が最も好む時代の美だった。
 


 ニコライ・ボリシェヴィッチ公に40年お仕えした従僕は、椅子輿こしのなかに座した神像のくちびるから通り抜けた言葉に我が耳を疑った。

ーー眠い。

 しかしそれは、喜怒哀楽といった生々しい感情をもたないはずの、絹の壮麗服で満艦飾なユスポフ家の御神体、ニコライ・ボリシェヴィッチ公の肌身が発した言葉であった。


ーー黒い部屋へ運べ! 

 疑いを差しはさむ余地は無い。切羽詰まった、畏怖するばかりの人民の言葉、ユスポフ家の家令で農奴に惨殺されたフランス人のドルセーが使っていた命令の言葉が、ニコライ・ボリシェヴィッチ公のくちから、肛門がわりにして飛び出たのだ。



ーー黒い部屋に、エカテリーナ女帝の寝台を用意しろ。臨終の部屋を設えるのだ。黒い部屋に入ると、その部屋を暴虐的に支配する調和によって、寝台の周囲の従僕たちはみな背丈が小さく縮んでしまう。もちろん部屋から出ると途端に元の背丈に戻る。今の時代の、こばこ仕掛けのオルゴール物語に酩酊する愛好家が満足を噛み締めていた夢想世界が、当時じっさいに起こっていたわけで、 黒い部屋の中に、刻印の光が燭臺しょくだいの蠟の臭いを蜘蛛の巣のような薄衣ヴェールがかぶさるのを楽しんで鎮座する。その周囲に寝台が築城の背丈を積み上げ、エカテリーナ女帝に拝謁する礼装すがたのニコライ・ボリシェヴィッチ公が横たわる姿を出現させる苦難に小人の大群がエイヤエイヤと奮闘するのを、イギリスから連れてこられドルセー伝来のユスポフ家の厳格作法を体得しつくしたフランス身なりのお仕着せ姿の、侏儒ドワーフの婦人が差配する。婦人だけは、黒い部屋のなかでも背丈が部屋の外での寸法と変わらないのだ。2週間が経った。目隠しをした三体の血まみれの天使が手をつなぎ合って、歩みゆく足あとの裸足を部屋の燭臺の蠟が溶ける音にあわせて部屋じゅうを鮮血色に蕩ろかしあった。3週間が経った。ニコライ・ボリシェヴィッチ公は寝台の4つの支柱を、まるでゴシックの尖塔であるかのように密度と邪気の濃い浮きだし彫りで蠢かせ、塵芥の背丈の人民のむれが畏怖する姿を楽しんだ。4週間が経った。高貴な身体の肛門と膀胱から、排泄物の噴出が止まらなくなった。ありったけの桶が部屋に運び込まれ、大量の造園用シャベルで悪臭もろとも、主人の下半身から噴き出る排泄物の個体と液体の処理に召使いと武官たちが、戦場以上の苦しみと狂気に溺れながら大量の池と山を桶のむれに築きあげた。ニコライ・ボリシェヴィッチ公の奢侈な食生活、ヴェルサイユ宮殿をロシアに持ち込んだ便所が一切ないアルハンゲリスコエでの生活の底蓋が崩壊し、巣穴から這い出た、排泄物悪臭の粘りつく有翼の何かが奇声を上げ続ける段に及ぶと、侏儒ドワーフの婦人のゆるしで、邸内での、銀の弾丸を装填したライフル銃の発砲許可がおりた。4週間が経った。ニコライ・ボリシェヴィッチ公に宛てて、ペルシャから一通の手紙が届き、手紙のなかの2か月前の空気が、きのうロシア大使館の一角に設え、ペルシャのそらの下でロシアの秘密主義を発酵させる箱庭が、大火事で全焼し、中心に聳える神像が灰になったと伝えた。手紙が、チェンバロの伴奏とともにオペラの歌声で伝えられると、ーー余が見えるように部屋の窓を開けて、庭で、余の椅子輿こしに火をつけて燃やせと命じた。部屋の中には、可能な限り大勢の人間が集められた。奇跡が入り込みやすいような錦糸の刺繍や緒や刻印ボタンで満艦飾な、半神のような武官や使用人、アルハンゲリスコエを飾り立て輝かせる役者やバレエの踊り子、おびただしい数の愛人たちが 泉 妖オンディーヌの扮装に緑葉の仮面をかぶせて呼び集められた。部屋のなかで 群衆ひとごみに暖められた匂いの綯い交ぜが、ニコライ・ボリシェヴィッチ公に嗅覚を呼び覚ます鼻孔を貫通させた。部屋の窓にはユスポフ家の神性を象徴する家具を呑み込む炎が吠え、咆哮の明滅が躍った。ーー余を一人にしろ、と寝台の中から声が爆発した。粛々と、集団が部屋から去っていき、  侏儒ドワーフの婦人のうしろを、ユスポフ家に500年も仕えて心霊見物が生活の一部になっている給仕が付いて歩き、一番最後に部屋を出た。1か月が経った。 ペルシャで燃え尽きた箱庭の亡骸がこばこの大きさで天から舞い降り、いんびなへや、にわよりちいさいへや….とチェロに乗って、歌い踊るのだ、何者かが。なめらかなへや、ひややかなへや、いいにおいのへや…薔薇が永遠に散らない庭の輝きを、歌声はひけらかすだけひけらかし、部屋を菓子箱のように、ぱたんと閉じた。密閉と同時に生まれた気配は、チェンバロの蓋か弦楽器のケースを閉じる音の冷やかさ。いまやニコライ・ボリシェヴィッチ公の刻印の光は消え去り、神寵に奢る肉身の神像をごうも感じないような、品のある、呆けた死顔の表情をうかべていた。また1か月が経った。侏儒ドワーフの婦人が従者を差配し、ニコライ・ボリシェヴィッチ公が着ている服を全部脱がせた。妖神邪神の世界は人間の世を裏返しにしたのであり、ニコライ・ボリシェヴィッチ公がアッザートフの家系図から、半神と邪神の戯れから離脱するために、服を全部裏返しにして着せてあげると、そのまま1日安置した。
 5日が経った。大宮殿に司祭が呼ばれてやって来た。司祭は黒い部屋の外での背丈のまま部屋の中に入ると、ニコライ・ボリシェヴィッチ公に、グレート・スキーマ Схима,  Great Schemaの地位を授けた。
 神と背丈をならべるのではなく、神から愛される「人間」になるための、人間へと戻るための儀式が、司祭によっておこなわれた。 
 儀式が終わって、司祭が部屋を出ると、幼い顔立ちの侏儒ドワーフの婦人もそのあとについていった。「お別れよ、叔父様」と言い残して。


 

 
 こうして、神の子だったニコライ・ボリシェヴィッチ公は、臨終の儀式が終わり、人間に戻って死んだのだ。頃はユリウス暦1835年。
 

 そうしておよそ90年の歳月が経った。ユスポフ家のフリゲート帆船級桟敷、領地の人民たちを畏怖させていた金張りの四頭立て大型馬車coachや椅子輿こしが、ロールスロイスに取って代わり、黒い瞳の一角獣ユニコーンの疾駆とシルヴァーゴーストの疾走が肩を並べる。ユスポフの家系図はふたたびアッザートフの家系図との結びつきを取り戻し、ヒュドラのチェンバロも帯剣のごとく、かたわらに鎮座し。刻印もまた、その光をチェンバロの装飾の蠢きから生やした切っ先に、鈴なりに灯した。

 



(※) カール・フリードリヒ・シンケルが描いたモーツァルトの『魔笛』の舞台画のモデルになった神殿である。













 何ですか?
 ヒュドラのチェンバロ【9】というのはどういう訳かと、仰るのですか? 
 【6】【7】【8】はどうしたのか。いつの間に書いたのかと?
 いいえ。まだ【6】【7】【8】は書いていません。
 拙作の副題には、クトゥルフ・バロックと書いてあります。
 バロックというのは 彫刻造形のように文体を磨き上げることだけではなく、宇宙の諧謔と擬態をも表すのです。よってヒュドラのチェンバロは、絶えず鳴動する宇宙の音色の転調のように、易々と【9】へと跳躍するのです。







  わたくしはドメニコ・スカルラッティの室内カンタータ『”ああ、私はどうしたんだろう O qual meco Nice cangiata”(台本作者不明)』のコンサートプランを練りながら、ヒュドラのチェンバロに向かう。
 1927年頃に、わたくしの祖父、全身がこごった蛋白石オパール細工もかくやとばかりに妖艶の美をひけらかす、テノール歌唱と女装の名手、ラスプーチン暗殺犯、ドミートリー大公の恋人、異様で横暴であらゆる単純さと凡庸さを嫌悪してやまないフェリクス・フェリクソヴィッチ・ユスポフ公爵はチェンバロの伝説的名手ワンダ・ランドフスカにヒュドラのチェンバロを、売り払った話をしよう。
 フェリクス・フェリクソヴィッチ公とワンダ・ランドフスカが、艶やかな棺から起き上がり・・・
 








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