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ヒュドラのチェンバロ【1】クトゥルフ・バロック、あるいは、18世紀が幻想的出発点なのでクトゥルフ・ロココ・ゴシック







 題にあるとおり、この怪奇譚は18世紀末の、ロシア帝国から始まる。ロシア以外、そして絶対君主制いがいの、どこからもこの物語は始まってはいけない。
 わたくしはこのことを、明記しておかねばらならない。


「アポロンのカリギュラ」「ナルシスのネロ」パーヴェル1世が竜巻の中心に玉座を鎮座させたガッチナ宮殿の、楽器工房で、カオスの極まりを呈し、宮廷演奏家たちの繊細優美なこころをかたっぱしから悶絶させるチェンバロが造られたのである。 
 楽器職人は、ふたりの男であった。チェンバロの産婆であり扶育ふいく係である楽器職人が、この世の者であるという証拠は、どこにも無かった。

 





 宇宙が死産めいた灼熱の産声をわめきたてて、影を躍らせる。
 影は、歓楽のみやこで地上と精霊の世界の放蕩を貪りつくした死者たちを満載した幽霊船のてつのかたまりが、甘く、暗い粘液の海に浮き、舞踏の跳躍を披露する。幽霊船の船首像フィギュアヘッドからは、数知れぬ、おびただしい蛇の頭が、のたくり、鎌首を誇示していた。
 跳躍は、影のぬしの、ドイツ騎士の鎧を脱ぎ捨てた、牧人の楽園ア ル カ デ ィ アの美少年の裸身すがたが、右手に持った鞭で、無数の蛇の唸り声を鳴らす。蛇たちのあたまが、牙から毒をしたたらせ。
 やがて右手は、鞭を放りだして、自慰にふける。要塞を破壊する儀式のように。チェンバロめがけて、精子を、たっぷりと浴びせかけた。高貴な獣皮じゅうひ装釘そうていされた魔導書のいろが四散した。   
 チェンバロは、おびただしい数の蛇の頭で満艦飾な怪物の名をとって、「ヒュドラのチェンバロ」と名付けられた。



 ヒュドラ。
 まるでありとあらゆる音楽を蓄積するかのように、脳みそを大量に持ち合わせ、音楽を完璧に具象化させる非常なる知能の高さを誇ったが意思というものが無い。無数の脳みそと同じ数だけの、凶暴さとも言える冷徹さの光をたたえた目の群が、人間のちっぽけさを睥睨するのだ。




 パーヴェル1世は、じぶんと同じくらいにうつくしい、皇后とふたりの皇子、従者の一団とともに、亡き母で先帝のエカテリーナ2世への憎しみが充満し、元老院と枢密院と文武顕官けんかんの古狸どもがずらりと居座ったロマノフ王朝の王宮である冬宮殿Зимний дворецを去り、ガッチナ宮殿Большой Гатчинский дворецに逃避した。
 ドイツ傭兵隊長の自治国家ほどもある箱庭の広大さが、パーヴェル1世の血脈に、魔女をほろぼす火刑台の灼熱を注いだ。母に殺された父、ピョートル3世が心血を注いだ過剰に潔白なドイツ精神によるロシアの浄化を夢みた視野、眼の劇 場グラン・ギニョルがひろがる。父をも凌ぐ息子のドイツ崇拝は、父の栄光を、狂気と冷厳さで受け継いだのだ。



 ロシア帝国の内部に築きあげたもうひとつの帝国、より先鋭な支配が横行するガッチナ宮殿を、パーヴェル1世は「ヒュドラの迷宮」と呼び、文武百官が一切の人間性を奪われ、一辺の不正確さも許さなかった。兵士も官僚も、14等官から1等官に至るまで、だれもが皇帝ツァーリの剣幕に震え上がる奴隷ホロープ身分だった。公爵が元帥杖を手に、皇帝に進言しようとすると、血走った呟きがのたまった、余の一言で400人の一兵卒が全員、元帥府に列せられるのだということを肝に銘じておきたまえ。
 パーヴェル1世は秩序の守護神を自認していた。皇帝ツァーリはガッチナの文武百官たちのために、パル・エステルハージの合唱曲『天上の調和ハルモニア・カエレスティス』の演奏会を開いたことがあった。しかし彼らは、皇帝の神経過敏な秩序崇拝と、わたくしの先祖の、有史以前の言葉で綴った魔術書の蒐集家で降魔の愛好家が領民たちに邪神崇拝を強要したことの、どちらがいいかと問われれば、みんな後者を選ぶに違いあるまい。ある聯隊れんたいが、行進の際に、誤った歩幅の間隔をとっているのを皇帝の眼前に晒してしまった。すると聯隊れんたいは暴君の激怒が炸裂するよりも早く、流刑地であるシベリアの方角へ、わき目も降らず行進し始めたのだ。
 奴隷ホロープたちは、その後ろ髪を、辮髪べんぱつのかたちに結わされた。その辮髪べんぱつとは、三つ編みどころか、ヒュドラの長い首が無数に絡み合った浮き彫りが撓う、極度に複雑な編み上げであり、蛇の頭が毒の牙でエカテリーナ2世を噛み締める不気味な飾り物の留め金が煌めいた。早朝のガッチナ宮殿は、さながら女学校の寄宿舎で生徒たちがコルセットの紐を結び合う数珠つなぎの姿が、男の白く吐く息につつまれて辮髪べんぱつを結い合う、未曽有の隊列に描き変わり、暗黒中世の武将が蘇ったように筋骨怪異で残忍なアラクチェーエフ大尉ひきいる軍紀違反の落ちこぼれ達が円錐形に尖って目穴の空いた黒い仮面と冷水でぬらした鞭で威嚇する地獄絵図を巻き込んで、回廊に蛇体の一列をくりひろげる文武百官は、限りない遠方まで伸びていくパーヴェル1世の視線の中で徐々にその姿を縮めていき、黒海の海上に日没の光芒を放射する太陽の、輝く一点に収斂しゅうれんされていった。
 騎馬や馬橇トロイカに跨る葬列儀仗兵ぎじょうへいじみた官服の後ろ髪に、毒々しいヒュドラの姿を舞い躍らせて行き交う。冷酷の技法を凝らした木彫りのとびらが嵌まった各部屋の戸口を護る召使となり、口伝えに、死と残虐の命令が伝達させる舞踏を永遠に、迷宮のオーケストラを展開し続ける。過度に誇張された機械化や政治化、あるいは軍隊化による調和の構造を、パーヴェル1世は凍てついた湖景色みずうみげしきをながめるように睥睨へいげいし、満足の証しの、冷たい溜息をついた。





 ”ガッチナは、余の手足の一部となり、ヒュドラの迷宮へと⽣まれ変わった。”


 ”迷宮は、無数の部屋があり、それぞれがヒュドラの頭のように、はかりしれない知能が脈打つ脳みそで、満たされている。”


 
”斧による斬首刑こそ、ガッチナの、ヒュドラの迷宮に捧げる儀式に相応しい。死刑囚を、うつ伏せではなく仰向けにして、刑吏が斧を振り下ろすのが見えるように徹底せよ。そして世に、ひろく知らしめるのだ。”


 ”余は遠からず、
ヒュドラの迷宮を拡⼤させ、余の箱庭の比類なき統一と調律を、ロシア全⼟に、行き渡らせるのだ臣民たち、農奴たちのすべてが、辮髪の数珠繋ぎの、中国の万里の長城をも超えて彼方をゆき連ねる光景が、余には見える。ロシア語を話す者も、フランス語もドイツ語も誰も彼も、ヒュドラの辮髪をむすびあう列につらなる軍人、官僚、貴族が、名前もなく、年齢もなく、最前列も最後尾もない、絢爛な環をえがく。これこそが、帝国の調和だ!”
 


 
 チェンバロが造られた年の1800年にハイドンの『天地創造』が演奏され、ガッチナ宮殿を透徹とうてつのオーケストラと慟哭どうこくのドイツ語合唱で覆いつくした。  
 パーヴェル1世は、まるで自分のために書かれた音楽と一体になって、宙に浮かぶような感激をあじわった。
『天地創造』の演奏の直後、ヒュドラのチェンバロは完成し、楽器には銘文が施された。「ヒュドラと共に生き、ヒュドラを宥める者はヒュドラと同じちからを得る
 豊穣な音色と演奏への期待を内包する移調3段鍵盤トランスポージング・トリプル....2段ダブルではなく、3段トリプルで造られ、チェンバロの醍醐味たる、粧飾しょうしょく燦然たる外装を、性善説も性悪説もない、観るものの魂をねじふせる永遠の暗黒がたれこめる古代文明の、理性のめまいをさそう複層ふくそうと身震いするほどの極北的な単一とが矛盾ない溶け合いを描き、メダイオンの象嵌ぞうがんと、シベリア地帯に育つ霊木れいぼくやマンモスの牙から彫りだした彫刻とで隈なく埋め尽くした。
 鍵盤の両わきには、中世のリュートを演奏する歌う放浪楽士の彫刻が暗黒古代的に聳立きつりつする。
 全体としての姿は異常なまでの生気にあふれている。チェンバロの胴体には、精巧に刻まれた中国趣味シノワズリ花綱はなづなの浮き彫りが取り巻き、楽士を巻き込んで生い茂っている。彼らはバグパイプ、ヴィオール、軍楽太鼓、オルガン、テオルボなどを手に取っている。その顔は傲慢ごうまん叡智えいちを具現し、一人たりとも、ルシファーの子孫に相応しくない者はいない。 
 ヒュドラのチェンバロは、「悲劇」「喜劇」「霊験劇」、「歌劇」という言葉に囲まれた、気が遠くなるほど表情豊かな、支配的な創造性と、破壊的な内なる声を内包ないほうし、いつでも戦う用意ができている蛇体の浮き彫りを誇示こじしている。言葉は、「ラッススLassus」「ジョスカン・デ・プレJosquin des Prés」「ジェズアルドGesualdo」「ブクステフーデBuxtehude」「バッハJ.S.Bach」「スウェーリンクSweelinck」「エステルハージEsterházy」「テレマンTelemann」「ヘンデルHändel」「ハイドンHaydn」など、12人の偉大な作曲家の名前や、ヒュドラの銘文めいぶんと同様に、その先端が、ぱん宇宙的な触手と反り返ったとげおどった、触手文字とよばれるカリグラフィーで刻まれている。
 チェンバロの脚は、中世の武将の足の形から、巨大な力とその強さをあらわす大きな虎の足へと劇的に変化している。

 楽器全体で最も息をのむような装飾は、チェンバロの蓋を、12世紀の修道士アルべリコ・ダ・セッテフラーティAlberico da Settefratiが著述したおそるべき光景の絵画描写によって放射的に爆発させている。ダンテが『神曲』の地獄篇で描写した、むごたらしい湖面に囚われた堕地獄衆の首の群れを綴ったすがたを彷彿ほうふつさせるもので、個々の頭部は解剖学的な正確さで筆致され、極端な誇張も交えつつ、 粘りきったかぐろい水面を埋め尽くしている。 人間もいれば獣人じゅうじんもおり、傀儡くぐつめいた鳥や馬や豚の首の腐り具合が、西洋絵画の範疇はんちゅうを超える技法で、なまなましく描写されていた。半面がどくろであったり、脳漿のうしょうを火のように燃やした聖職者もいれば、天啓を受けた農奴、羅馬法王の知恵を授かってしまった野盗の娘、旅芸人の魔王礼賛が、あらんかぎりのマゾヒズムを誇示していた。
 響板きょうばんにも、絶妙な筆致で、ひとの首が、ひとつきりだが描かれている。若くもなく、老いてもおらず、男とも女ともわからず、広げた口からは、絵筆のとろけ具合と、歌唱のようにも、複雑な呪文を唱えているようにもみえる、儀式的な気配がわだかまっていた。まるで、楽器職人のふたりの男がチェンバロを前に口走る長文の言葉の、禍々まがまがしくうねくる色彩の光彩陸離こうさいりくりが、見え隠れしているようだった。
 




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