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『美学への招待』への招待

本投稿は佐々木健一著『美学への招待』の書評だったり解釈だったり備忘録だったり、とりあえず現状の頭の中の散らばった机をある程度片付け整理し、思い巡らす準備をはじめることを目的としている。むろん終わってから見返すと、むしろ書き出す前よりもより雑然と散らばっている可能性もあるが。

まずは美学とは何かというところから。
美学とはその名の通り美を考える学問なのだが、これだけだといまいちピンと来ない。僕の解釈では、「何に、どう美を見出すかという学問、」といえそうだ。
主要な観察対象は藝術で、藝術をどう鑑賞すべきかという学問とも言えそうだ。

ここで出鼻を挫かれたのだが、僕としては議論の対象が人間の造形だったり、自然だったり、はたまた数式だったり、そうした有形無形のありとあらゆるものについて美を追求する学問かと思ったらどうやらそうではないらしい。
無論そうしたテーマを美学の枠組みの中で取り組む学者もいるのだろうが、美学者の多くが関心があるのが藝術とその周囲と言えそうだ。

これは美学成立の歴史的背景が大きく影響しており、18世紀ごろ(意外と最近)詩学から発展したのが美学で、詩を始めとした絵画、音楽、建築等の鑑賞のhow toが起こりだからだ。
これはカスティリオーネの『廷臣論』に見たりできるように、宮廷での昇進が出自よりも本人の魅力によって決まる時代になり、人が魅力を意識し始めたところに美学の背景があるというのである。
なのでどちらかというと直感的に魅力を感じる自然だったり、異性の顔だったり、ニッチな数式の美しさの深淵を探るというのは当時の貴族のニーズにはなかったのだろう。

本投稿では広範な本著テーマのうち2つに絞って紹介したいと思う。

1つめは藝術を藝術たらしめるものは何か
2つめは現代アートの大半が一般人にわからないものになったのはなぜか

1つめに関して、端的に「アートワールド」と言う概念がこれへのアンサーとなる。これは芸術家、評論家、学者など、専門家の共同体の総意のことだ。彼らは無論一枚岩ではないのだが、彼らの総体、思考のニューロネットワークが藝術を藝術たらしめている。
この実態が2つめの問いの答えに繋がるのだが、それ故近代以降、藝術は美しさと必ずしも一致しなくなった。著者曰く元々の美学は崩壊したとさえ言える。
何故なら藝術は感性の範疇を超え、醜いものまで含まれるようになったからだ。背景としてはグローバル化や、情報技術の発展による複製、加工などの安易化などから語れるだろう。
象徴的なのはマルセル・デュシャンの泉(1917年)※1やアンディ・ウォーホルの市販段ボールの複製(1964年)※2だ。
これらは文脈、社会背景、議論余地を藝術価値の依拠としており、同時にこれまでの素朴な観察者、素敵なものを素敵と感じる心を置き去りにさせるものだった。
あくまで近代の藝術の世界を変えたのはデュシャンやウォーホルではなく、それを鑑賞する術を見出し、評価したアートワールドだということは改めて強調したい。

※1

※2

著者自身は藝術を、primitiveな美学の元にに返したい、つまり美しいものを美しいと讃える世界に返したいという論旨だが、個人的にはこの点の評価は据え置きたい。
露悪的な藝術作品に面白おかしさや奥ゆかしさを感じるには充分なほど、僕たちは現代アートに触れ過ぎてしまっているからだ。(例えば著者の論ではゲルニカの評価が難しくなると思うし、また何に醜さを感じるかは何に美しさを感じるかと同じ程度に現代では多様化していることが前提となっているからだ。)
もちろん著者があげているのはゲルニカのような、既に評価が定まっている作品ではなくダダイズムの作品、例えばダミアン・ハーストの『1000年』(ガラスケースの中に入った本物の牛の頭部にウジが沸いている)など、確かに賛否分かれそう、むしろ直感的には否定したくなるような作品だ。
詳しい経緯までは書かれていないが、アートワールドはこれを評価したため、現代アートとしてこの作品も一定の地位を得たと思われる。
醜い、露悪的なアートを藝術と呼べるのかはいずれにせよ議論を呼ぶが、我々の心を動かすものだという見解は両陣営一致するだろう。
最後に簡単に僕の意見を書かせていただくと、醜いアートを藝術と見做せるかは、美と藝術が近い時代に生まれていない僕たちの世代(主語が大きくて恐縮だが)にとっては、そもそも問いとしてナンセンス、つまり美は美だし、藝術は藝術じゃないかというのが直感に近い。
もしかしたら僕自身が汚い路地裏や、団地に干された洗濯物や、早朝のゲロ臭い渋谷に憧憬のような好意を感じる人間だから上記のような直感に落ち着くだけな気もするから、やはり僕ら世代の一般論ではないのかもしれない。


最後に、美とは一体何なのかという命題じみた問いに関して、著者はダントーとネマハスという2人の美学者の言葉を示している。
これはどちらも印象深かったのでものすごくざっくりだが紹介させていただく。

ダントーの掲げる美は、直感的な美だ。
これはどこか死に向かうバイブス(表現として適切でないが他に思いつかなかった)が宿っている。
例えば、9.11の後にNYの各地で灯された蝋燭であったり、そうした死と慰めの情景に直感的な美を誰しもが思わず見出してしまうものだという。
エレジー、カタルシス、と言い換えてもいいだろう。

ネマハスの美は生のバイブスの美だ。エロス的な美とも言える。
例えば舞踏会に自分の恋人より美しいと見える女性がいる。美しさは幸福を期待させる。つまりその人とのこれから始まるかもしれない情熱の恋を感じる。一方で横にいる恋人を見るとやはりこちらも美しいと感じる。これは既にその人と様々な経験をし、それを通して成熟し、この後もさらに様々な驚きや感動を得ることを確信している愛である。この二つの美しいと感じる感情は、性質こそ違えど幸福を約束するものとしてどちらも一致している。

ダントーとネマハス、どちらの美にも共感できるところがあったのではないだろうか。
両者の美の良し悪しはフラットに比較できるものではないが、何か創作をする人間は両方の美というよりは、どちらかの美を意識的、無意識的に選択する必要があるように思う。
そうした上で、あなたはどちらに重きを置きたいだろうか。

最後になるが我ながら酷く読みづらい文だなと思う。
理由は明白で自分の中で噛み砕けていない要素があまりに多いのだ。(また今酩酊であるのも付け足させていただく)
まあいいじゃないか、「美とは何か」なんて早急に理解した気になるにはあまりに面白いテーマだしもったいない。あなたも一緒にズブズブと長い人生をかけて考えていこう。

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