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都合のいい解釈かもしれないけど

ドラマにはときめきが不可欠だ。それはストーリーでもいいし、出演者の容姿振る舞いでもいいし、ファッションでもインテリアでも、心震わす名台詞でもいい。

「大豆田とわ子と3人の元夫」は今季、私を最もときめかせてくれるドラマだ。
前情報なしに見始め、第1話の開始30秒ではっとした。

これ、脚本坂本裕二じゃん!

独特の台詞回しに空気感。久しぶりにテレビの前で興奮した。
第7話まで見た。その勝手に寄せた期待にしっかり答えて毎週私を癒してくれている。


坂本裕二氏の脚本作品に初めて出合ったのは「カルテット」だと記憶する。

訳ありの4人がカラオケボックスで「偶然」出会ったことを機に、カルテット(弦楽四重奏)を組む。軽井沢で共同生活を始めた4人だが、4人はいずれも嘘を付いている。日々巻き起こる事件の中、いつしか互いの嘘を許し合っていく。

坂本裕二ドラマをみるとき、1話が長く充実した印象を受ける。ぎょっとするような展開、伏線でもある冗長な会話。個性豊かな登場人物の生活は、ドラマとはいえ離れがたい、ずっと見ていたくなる気持ちにさせる。そしてなんといっても人をはっとさせる台詞回しだ。

泣きながらご飯食べたことある人は、生きていけます
人を好きになるって、勝手にこぼれるものでしょ。こぼれたものが、嘘のわけないよ。

何度支えられたか!

カルテット放送当時の2017年冬は、当時お付き合いしていた方と社内恋愛なのに連絡が取れなくなり落ち込みに落ち込んでいた時期と重なる。

その頃の私は寝ても覚めても仕事中でも、常に涙をこらえていた。同居していた母に悟られないように、仕事後は毎晩のようにレイトショーに足を運んでは暗転前から泣いていた。

ぼろぼろだった私がこのセリフに支えられたことは説明するまでもないだろう。

例えば音楽であるならば、落ち込んでいたときよく聞いていた曲は地雷にもなりかねない。
ただ、どんな思い出の曲であっても、何度も何度も聞いてるうちに自分の中で大衆化してきてくる。そうすると、重なる記憶が薄れるものだ。世代的には「3月9日」や「空も飛べるはず」なんかがそうだ。

つまりこのカルテットは地雷にもならないほど観た。確実に5周はしている。
支えられたのはこの時ばかりではなかったのだ。

話を大豆田とわ子に戻す。

第7話は、第2章の始まりとされた。
親友の死、娘との別居、会社の買収話。一人になるとわ子。新しい恋が始まるかもしれないとわ子。 
そんな時、元夫の一人であるシンシン(慎森)は、とわ子に好きだと伝える。その台詞がまたいい。

自分らしくして好きな人に好きって言えないなら、自分らしくなくても好きな人に好きって言いたい。そうやって続けていけば、それも僕らしくなっていくと思うし。

シンシンのらしくない告白でした。
自分らしさって、自分で決め付けるものじゃなくて自分でつくるんだよね。

そしてプライベートと仕事の切り替えが宇宙一極端なオダギリジョー(名前忘れた)の登場。
ほぼ初対面だったのに、とわ子は亡くなった親友かごめの話をする。「みんなにそう言われるんだけど、かごめはやり残したこと、あったんじゃないかな」。それに対するオダジョーの台詞はこうだ。

人間にはやり残したことなんてないと思います。過去とか未来とか現在とか、そういうものって時間て別に過ぎていくものじゃなくて、場所っていうか別のところにあるものだと思う。

人間は現在だけを生きてるんじゃない。その時その時を懸命に生きてて、過ぎ去ってしまったものじゃなくて。あなたが笑ってる彼女を見たことがあるなら今も彼女は笑っているし、5歳のあなたと5歳の彼女は、今も手を繋いでいて今からだっていつだって気持ちを伝えることができる。

人生って小説や映画じゃないもん。幸せな結末も悲しい結末もやり残したこともない。あるのはその人がどういう人だったかっていうことだけです。

展開を無視していいのであればこのジョーのセリフ、今の私はこう受けとりました。
「人生は線でなく点」

今やってること、将来なにかにつながるのかな。あるいは、昔やりたかったこと、これじゃないかもしれない。そんな風に思うことがある。
それはそれでいい。ただ、考え方の一つとして
「今楽しいならいい」

それでいいじゃないかと思う。
多分また数日後でも数ヶ月後でも、このセリフを聞いて受け取るものは全く違ってくるかもしれない。それが私にとっての坂本裕二ドラマの一番の魅力だ。

とわ子の恋はどうなるのか、会社はどうなっちゃうのでしょう。3人の夫は?
7話ということはそろそろ終わっちゃうのかな。
来週も楽しみです。

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