【備忘録】【安倍氏国葬】犯罪者が本懐を遂げ、死者は尊厳を得られない不条理
安倍晋三元首相の国葬の日に合わせて、元日本赤軍の足立正生氏が監督した映画「REVOLUTION+1」が公開された。安倍元首相を射殺した山上徹也容疑者をモデルにした映画で、足立氏いわく「国葬の時にやりたいと思ってつくった国葬反対の映画」だそうだ。
反権力の表明という足立氏の制作動機と、世界平和統一家庭連合(旧統一教会)に苦しめられた山上の心情に寄り添う立場は明確だ。
「REVOLUTION+1」は、芸術性とか娯楽性といった映画の醍醐味をうんぬんする作品ではなく、最初から政治的メッセージを発出する道具としてつくられたのだ。
政治を映画の題材として扱う手法はこれまでも多く見られたが、それにしても人一人の命が失われた直後というタイミング、しかもその人間の葬儀の日をねらって公開するというのは、さすがに悪趣味ではないか。
国葬の是非については、定見はない。国葬だろうがそうでなかろうが、その日1日ぐらいは、史上最長の日本国総理だった人物の冥福を静かに祈ってもいいのではないか。最低限の礼節である。
それができなかったのはなぜか。日本は独裁国家ではなく、選挙も公正に行われているのだから、安倍氏に対しては史上最長の政権を託す程度の民意の支持があったと捉えるべきだろう。
となると、国葬に頑強にかつ積極的に反対したのは、安倍政権下で政府に顧みられなかったという満腔の不満を抱えている少数派の人々だったと理解せざるを得ない。保守とリベラルが逆転しているが、米国でバイデン政権を罵倒する人々と同様の不満である。
議論はあるだろうが、私はこの際、世論調査で多数派は国葬に反対だったという事実を、あまり重視する必要はないと考えている。国葬反対は旧統一教会批判の嵐の中で醸成された世論であり、これは佐藤卓己が言うところの大衆感情(popular sentiments)という一時の情だと思うからだ。
結局、今回の国葬騒動で最もないがしろにされたのは「死者への敬意」であり、達成されたのは、旧統一教会とそれを支えてきた政治の仕組みを破壊するという山上容疑者の当初の狙いである。
死者は尊厳を得られず、犯罪者は本懐を遂げた。旧統一教会が社会に害をなしてきたことは否定しない。だが、こういう形で成し遂げられたものを正義と呼ぶことは、私にはできない。
一方で、絶対国葬にすべきだと主張して、富士山を象った祭壇の前で記念撮影に興じる人々にも共感は抱いていない。なぜ静かに瞑目することができなかったのか。
死してなお政治から逃れられなかった安倍氏は、天国で何を思っているのだろう。まったくやり切れない。