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亡き母との終活

今回は…ごめんなさい。先に謝ります。自分の中でちゃんと心の整理と『ちゃんと泣く』ができないまま今日に至ってしまった。そのことで心がいつまでも置いてかれたままになっていた事に気がついてしまったので、きちんと整理するために、浄化するためにこの記事を書きます。

今辛い思いをされてる方は読まずに別の記事に移動してくださいね。

亡き母との終活がはじまったのは昨年6月でした。それまでは兄夫婦や私の中でいわゆる『毒親』カテゴリに入っていた母。

何故か。常に1人で決断し、私たちの想像の遥かに斜め上にぶっ飛ぶ人でした。そして思ったことをオブラートに包まずドストレートにものを言う、LINEでくどくど説教垂れる、反応なくなると急によそよそしくなるなどなど、これは文章で書いただけだとそんなこと?と思うかも知れませんが、直接やり取りすると鋼のメンタルの私の娘でさえ『これはちょっと…』という感じでした。

というわけで、私は数年間、兄夫婦は二世帯住宅に住みながら完全に距離を置いておりました。

膵臓がんの告知を最初に受ける日、母から連絡があり病院に家族と一緒に来て欲しいと言われたとの事で兄夫婦、私、叔母と招集がかかりました。

流石に『家族を呼んでください』は相当やばいとの事で、全員集合。

精密検査を何度も行なった結果、膵臓がんと判明したと。ただ、手術を受ければがんは取れる。手術を受けなければ余命半年とのことでした。

母は手術を拒否、家族は一致団結で手術を受けて命が長くなるなら受けないという選択肢は浮かばないだろうと手術を勧め、母もそれに応じて手術を行うことになりました。

6月30日。手術の日には兄夫婦、叔母、私が集まり待機。母はスタスタ歩いて手術室に向かう元気ぶり。あー大丈夫そうだねー。などと話してました。

手術開始が9時半、12時半になり、兄夫婦が先に食事を取りに外出。その間に医師から呼ばれて私と叔母で説明を受けました。

『癌細胞が予想以上に太い血管にこびりついてる。なかなか取れない、取り切れないかも知らない。取った時にも血管の中に癌が入ってしまう可能性がある』とインオペを提案されました。

ここまで頑張ってそれはないだろうと叔母が泣きじゃくる隣で私は『取れるだけ取ってください!続けてください!』とお願いし、手術は続行。兄夫婦にも伝えその後6時間待機。

手術はとりあえず成功。とりあえず、癌は全て取りましたと目の前で癌とその周りの膵臓や十二指腸、胃などの切除した部分を見せてくれました。

医師は精一杯やってくれました。

しかしその後小腸が腫れて再入院…その後糖尿病併発(膵臓を取ったことによりインスリンが作り出せなくなるのでこれは仕方ない)で再入院。コロナのため、面会もNG。そのために洗濯物を看護師さんに受け渡しする日々。これを主にやってくれたのは私の娘でした。

バイト先も学校も病院に近いからと、足繁く通ってくれた娘。母はそんな娘に一目会いたいとLINEでやりとりし、病棟の窓から見えるコンビニの前で娘と待ち合わせ、窓越しに手を振り合った時、『久しぶりに恋する人に会いに行く気持ちだった』と話していました。娘も精一杯手を振ってエールを送っていたと。⤵️横になってしまいましたが、ここが娘とガラス越しに会えた場所、病棟側から撮影しました。

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退院し、インスリンや血糖値を自分で測ることになりました。そこで私の知り合いのIT系に強い方にLINEアプリ『血糖値測った?』アプリを作成してもらい、見守り者(私)にも通知がいくようにセットしてもらい、安否確認をしつつ毎週金曜日は通院。10月の検査の結果、癌再発&肝臓に転移、もう手術は不可能との宣告。来年の桜まで生きられますか?との問いに先生は首を傾げるのみ。

その後母が会計している間、先生に『本当の余命を教えてください!』と聞くと『年内持たない』と悔しそうな顔で伝えてくれました。

その後は母が元気なうちにと連れていきたかっためじろ台にある友人の店で美味しいイタリアンランチを堪能。美味しい、美味しいと何度も言う母。よかった。今のうちに美味しいものをたくさん食べておこうね、思い出残そうね。

そして11月からは大好きなウクレレ教室に付き添いはじめました。

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11月最初の週の様子。ここは元職場だったもんで、先生との久しぶりの再会に私も嬉しい気持ちになりました。

母が退会手続きをしてる時にこっそり先生には母の余命をお伝えしました。

最後のレッスンは11/20。先生もこの店舗での講師契約が終わる日だったので、最後のレッスンとなりました。この日は本当は歩くのもやっと。ウクレレも持てないほど。車椅子を拒否して気丈にエスカレーターを上がり、教室へ。

『今日は先生に何か三曲弾いてってお願いしてたなー楽しみ!』と言っていた母。私も実はひっそりと先生にお願いしてました。『最後のレッスンの時、この曲を…』

最後のレッスンは最初に記念撮影から。

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立つのもやっとなのにね。頑張ったね。

その後、リクエストに応じて先生セレクトの三曲を演奏してもらうことに。

1曲目はフラの曲。先生も母も大好きな曲。 

そして2曲目。私がこっそりお願いしてた曲。

先生『G線上のアリアを演奏します』

母『うっそ!!!』

緩やかやな、優しい音色で奏でる音楽。母は泣きじゃくっていました。幼少の頃から『母が死んだらG線上のアリアをかけてね』と言われ続けていたこの曲を、生きているうちに大好きな先生に弾いてもらって心に刻んで欲しかった。先生は期待に応える演奏をしてくれました。

さらに最後にこれまた母が大好きな『花は咲く』を演奏して、またもや母が大号泣。

望月先生、母に沢山の幸せを与えてくださりありがとうございました。

その後母の体の痛みが尋常ではなくなり、痛み止めをマックスに。抗がん剤もどんどん増えていきました。

12月上旬、叔母が1週間泊まりに来てくれ、母にずっと付き添ってくれました。ベッドから起きるのに2時間かかってるらしい話で、ネットでベッドの柵を注文、兄につけてもらいました。

この頃から、兄が母に心を完全にオープンにしてくれるようになりました。

母と叔母と3人でランチに行きました。母がずっと行きたがっていたお寿司屋さん。 

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裏メニュー。これを美味しい、美味しい!とおかわりしたほど。食欲がもうほぼなかった母が最後に楽しんだ外食でした。淳ちゃん寿司の大将、ありがとうございました。

この時にはもう身体も骨と皮ばかりになり、痛み止めで何とか動いていた母。それでも入院を拒む母。できるだけ家にいたいというお母さんのお気持ちを叶えてあげましょうと主治医に言われ、間に合うかもわからない高齢者いきいき課にて介護認定の申請、同時に訪問看護さん、ケアセンターなどの登録、緊急措置でと伝えて皆さんに急いでいただきました。

12月18日、母のもとへ行くとチキンナゲットの容器を前にポツンと母がしゃがみ込んでいました。

ちいさく、小さくなっていました。

『お母さん!お母さん!』

ずっとずっと泣くのを堪えていたけれど、もう限界でした。わんわん泣きながら抱きしめたその身体はもう死期が目前に迫っていることを嫌と言うほど思い知らされる状態でした。

『良くなるっていったじゃんか。頑張れば痛いの取れるって…全然良くならないじゃないか…』振り絞るように言う母。

『こんな苦しい思いをするなら…もう死にたい』

母の心からの希望と絶望と入り混じった病に戦う気力も奪われた母から聞いた言葉はずしんときました。

もう頑張らなくていい、もうじゃーぶん頑張った。もういいんだよ、もう楽になっていいんだよ。私とお兄ちゃんを産んでくれて育ててくれてありがとう。もう頑張らなくていいから、、、。

母を寝かせ、母がたどたどしい声でバッグを指差しながら『あそこに…渡すものが入ってるからカバンごと持ってって』

それは母と一緒にセレモアに行って決めた母の葬式の見積もりやパンフレット、費用、孫たちに向けた手紙とお金、兄への喪主としての費用、私へ託したいと新盆以降の法要、埋葬方法の希望などが書かれた紙など、がん保険の証券が入ってました。

いよいよなのだと。母も私もわかってしまった瞬間だったんだ。翌日は私の4人の子供たちと母でクリスマス会をやるはずでした。それは叶いませんでした。

翌日19日、ギリギリ間に合って三日間だけお世話になった訪問看護さんが救急車を呼んでくれました。行き先は母が最後にお世話になりたいと熱望していた南多摩病院。ベッド満床だったけど、癌末期ステージ、まもなく…との救急医の診断により個室を開けてくれました。

29日、モルヒネ投与の前に兄と2人で特別面会をさせてくれました。意識がすでに朦朧としている中、足をぴょんとさせて反応してくれてました。

31日、バイト中の三男を除く子供たちを連れて時間をずらして最後のお別れしておいでと特別面会に行かせて、最後に私と娘とで面会。

元気なうちに会っておきたかった、、娘がぽたぽた涙を流しながら言ってました。

31日。22時半に年越し蕎麦を作り、よそり始めたその時、兄から電話がありました。

『今平気?落ち着いて聞いて。母の脈拍が落ちてるんだって。今から迎えにいくから病院に行こう』

身支度を済ませて葬儀の会員証、パンフレット、見積もりなどを持ち、兄の車で母の個室へ向かいました。

廊下に来た時点でもう危ないと言う緊急音が聞こえてきました。早足で病室に入ると、数時間前とは違う呼吸になっており、鼻と口から血では無い何かの液体がどろっと出ており、看護師さんたちが処置をしてくれているところでした。

『お母様が言ってました。こんなに辛い思いを半年もしてきてもう死にたい。でも最後は息子と娘に会いたいって…私たちにできることは何でもさせていただきます、いつでもおっしゃってください』看護師さんも泣いてました。なんてありがたい。お母さん、あなたのために泣いてくれる人がこんなにたくさんいるよ。

兄が母の頭を持ち上げてくれてるうちに私が母から出てくる液体を拭き取り、枕元に溜まった液体をパットごと取り替え、顔をウェットティッシュで拭く作業をしつつ、落ち着いてる時は兄と2人で母の好きだった音楽を流しました。

ビージーズ、ABBA、サイモンとガーファンクル…とてもハイカラな母でした。プールに連れてってもらったね、楽しかったね。テープが伸びたら冷蔵庫に冷やして何故か再生できてたよねとか、久々に家族水入らずの団欒のひと時を過ごせました。

そうしているうちに年がかわり、丑年になりました。お母さん、年女になったよ!年内越えたよ!すごいよ!

洋楽を一通り流した後、邦楽で何が好きだったっけ?と言う話になり、安全地帯のワインレッドの心を流して懐かしいーと話してたその時、、、

脈が一気に上がり、異常音が機械から鳴り、母が一気にどろっとしたものを吐血。『うっ』と言う声が聞こえたような。

『お兄ちゃん、ナースコール押して!!』 

すぐに看護師さんが来てくれ、状況を一瞬で把握して最期のしょちをしてくれました。

園山さん、ごめんね、頭動かすね。体拭きましょうね、脈測りますよ。

一言一言丁寧に語りかけてくれながら、止まった心臓、脈の確認、身体のふき取りなど応急処置をしてくれたあと、医師の診察がありました。

1月1日1時54分。永眠。

その後葬儀屋さんを私が呼び、お迎えが来るまでの間、身支度をきれいにしてくださって最期の面会。顔にきれいな白い布をかけてもらってて…

兄と私で母の頭を撫でて、

『頑張ったね。もう、痛くないよ』

兄のこの一言には母の愛が沢山たくさん込められていました。

きっと母にも聞こえてたと思います。母は最後に兄と心を通わせることができて本当に本当に嬉しかったと思う。幸せな人生とはとても一括りでは言えない波瀾万丈の人生を送っていた母。でも、最後に一番大事な息子と娘に看取られた。一緒に年を越せた。最後に凝縮された家族の時間が作れた。それが何よりの天に召される前の幸せな瞬間だったのではないかと思いました。

産んでくれて育ててくれて本当にありがとう。

亡くなった後には何故か良い思い出しか思い出せなくなってるから不思議。そう言うものなのかもしれないですね。


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