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Berlin in 2006 #1

エリさんとは、友人に呼ばれて出向いた誰かの誕生日パーティーで出会った。誰の誕生日だったかは知らない。でもそんなこと誰も気にしない。おおかた、私同様、ただ酒が飲めると聞いて集まってきた連中だ。
部屋に入ると早速、バスタブで冷やしてあるビールを取りに、バスルームへ行く。エリさんはそこでひとり、便器に座り、マリファナを吸いながら、メロンパンを食べていた。「忙しそうですね」私は笑って声を掛ける。エリさんはガハハと大きく笑って「マリファナはいいんだけどさ、このメロンパンは誰にも分けたくないんだよね」と言う。「キミも欲しがらないでね」そう言って吸いさしのマリファナを手渡してくれる。私は受け取って、バスタブに腰掛ける。時より客がビールを取りにくる。しかしまだ12時前。幸いに誰もトイレの使用を要求する者はいない。私たちはトイレの管理人みたいに居座っている。何人かは吸いさしを見てウィンクする。
私はマリファナを吸いながら、蓋を開けたばかりのビールを差し出す。エリさんはううんと首を振る。「甘党なの、見ての通り」そう言ってメロンパンをむしゃむしゃと齧る。
私たちはお互い自己紹介をして、家が目と鼻の先にあることを知ると、連絡先を交換しようとスマホを取り出す。私は、肺に溜めていた煙をゆっくりと吐き出す。そしてエリさんがスマホにログインした時に一瞬だけ見えた、小さなショートカットの女の子の写真が目に留まる。「これ、今見てたの。可愛いでしょ?」。エリさんは登録の作業が終わると、事も無げにその写真を見せてくれる。お子さん?とも思ったけど、それはエリさん本人の写真だった。
「可愛いですね」私は言った。「でしょ」エリさんはスマホの画面を指で撫でた。女の子はカラフルで小さな傘を差し、嬉しそうに笑っている。私はマリファナをエリさんに回す。エリさんは、もういらない、終わらせていいよ、と言って本格的にメロンパンに取り掛かる。「私さ、ある時、とんでもない間違いをしていたことに気づいたんだよね」エリさんは話し出す。「私、小さい頃の話をするときに、いつも、"私はあんまりいい子じゃなかった"と前置きしてたんだ。でもある時、どんなふうにいい子じゃなかったのか、全く心当たりがないことに気づいたの。あるのは叱られてる記憶だけ。」エリさんはメロンパンを頬張りながらもそもそと話す。
彼女は、じっとしていられなかったり、物を壊したり、ブロッコリーを残したり、ピアノの練習をサボったり、遊びに夢中でハメを外したりしては、毎日のように親や幼稚園の先生に叱られていた。学校に上がると、テストの点数が芳しくないことでも叱られるようになった。
「叱られるのは嫌だし、怖いし、拒絶されてるように感じるし、だから叱られないようにしなきゃって思うんだけどさ、でもできないんだよねー」エリさんの声が少し詰まる。「そこがまた周りの大人にとってはもどかしいポイントだっただろうし、どこかおかしいと思われてたところもあったと思う。実際そういう言葉も吐かれたことあるし。」
エリさんはポーチからヤクルトを出して飲み始める。
「"いい子"にならなきゃって思うんだけどさ」エリさんは一気に飲み干して言う。「でもなれない子だったんだよね」。
そして大人になり、結婚して、離婚して、なんとなくアルコールの量が増え、時より同僚に酒臭さを指摘されるようにまでなったある日、
『そのままのあなたを愛している』
という言葉を耳にする。それはテレビで流れていた家族ドラマの台詞だった。そして、エリさんが言うところの、“ほとんど形骸化された、このありふれた常套句”に、涙が止まらなくなる。
「なんか突然琴線に触れちゃったんだよね。」エリさんは言う「私はそんな言葉、誰からも言われたことないし、期待したことすらなかったんだよ」
この言葉が引き金となり、エリさんは、誰かが勝手に定義した"いい子"のイメージにそぐわなかったと言う理由だけで、幼き彼女を、今の今までネガティブに見ていたことに気がつく。
ありのままでいいよ、って、一度も言われたことのない女の子。
「それでもう、小さいこの子が可哀想でしょうがなくっなっちゃって。だってただの子供じゃん。なのに“いい子じゃい”なんていう冠被らせてさ。多分この子はもうずっと、愛されるために変わらなきゃって思い続けてるわけでしょう。それに気づいたら、ごめんなさいって気持ちが目と鼻からどかどか溢れ出してきて止まんなくなっちゃったんだ」
エリさんの目から何かが落ちる。私は気づかないふりをする。
「それ以来、時々、こうやって写真を見ながら、彼女に"可愛いね、大好きだよ"って言ってあげてるの」
私もスマホの彼女に向かって「可愛いね、本当に可愛い」と言う。エリさんは嬉しそうに、ありがとうと言う。

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