見出し画像

眠れぬ真夜中の子育て反省日記

真夜中の告白。睡眠サプリを飲み忘れたら、見事に途中で目が覚めて眠れなくなった…。睡眠サプリすごいな。

ある方から質問をされて、それがずっと頭に残っている。

テックパークという子供を預かるためのサービスの事業化は、なぜできたのかということを、簡潔に表すと、今まで取材なんかに答えてることなんだけれど、その中身については、ぜんぜん掘り下げる場面も機会もなく、葬り去られたようなわたしの記憶が、眠れない夜に蘇る。

ささくみさんの子育ては楽しそうですね。や、わたしの発想力を褒めてくださったり、母性だなんだと、絶賛してくださる中で、そこまで行くのには、そこまで考えさせる環境の中や失敗の連続、生き辛さから、そこまでたどり着いている、動機というか、その元となる、苦い思い出がたくさんあるからだ。

それを、振り返らないと始まらないと思ってたのでこのタイミング(なんの)で振り返ります。勝手に。

わたしは20歳で子供を産んだ。おかげで辞めたかった学生生活にとっとと理由をつけて蹴りをつけて逃げることができた。

若いわたしは、好奇心や大好きな旦那さん(当時)と一緒に住めることや家を出られること、そして、子供を授かったことに対して、楽しみしかなく、これで本当に、親から逃げられると思った。ほんとにそう思ったの。

世間はままごとじゃないんだ、と若いわたしにいう。順序が違うとか、当事(27年まえ)は、恋愛→結婚→妊娠→出産というセオリー通りでなければ白い目で見られた。また、若い人が子供を産むことにも、なんとなく抵抗感のある時代だった。

親も結婚が早かったこともあり、最初は難色を示したが、すぐに理解を示し、経営者だった父親のおかげもあり、あまり苦労せずに家庭を持つことができた。親も若かったので(両親ともまだ40まえ)子供を預けるということもとても楽にできたしとても可愛がってくれた。

一番の理解は、わたしが仕事を持っていることに対しての子育ての全面協力だった。

ありがたいことに、当時、珍しかったWEB系のフロント、サーバサイド、ネットワーク(DB以外)と、割とフルスタックだったわたしは、さまざまなところで重宝され、また、可愛がられた。

男性ばかりの職場は、わたしにとっては居心地が良く、わたしより人見知りの激しい社員ばかりに囲まれていたため、わたしはまるで、人見知りじゃないように見えた。

女性で子持ちのわたしに対して、周りはとても柔軟に扱ってくれた。

しかしながら、離婚したタイミングで父は激怒、勘当された。娘は当時の旦那様に連れ去られ、わたしは1人、路頭に迷う。

とりま、祖母に敷金を借り、家を借りた。そのタイミングで転職。それでも上記のような理由で、重宝されたため、特に就職には困らなかった。

それがわたしを救った。技術を手につけろと、皮肉にも父にずっと教え込まれて育てられたことが、とても自分を救ってきた。

そんなこんなで、勘当され、娘を取り上げられ、一人ぼっちになったわたしは、娘を奪還すべく、夢中で働いた。やっと、本当に子供と離れたくないという気持ちに気づけた。子育てが好奇心で支えられてたものが、急に、自分しかできない使命のような、強い気持ちが芽生えていた。意地もあっただろうが、子供と離れるという苦痛を味わって初めて、自分が産んだ子供に対する母性のようなものを理解した。

両親には甘えられず、なんとか1人で生きると言うことがうまくできるようになったかもなぁというころには、ありがたく、当時の年齢からすると、割と良い収入を得るまでになった。

そのおかげで、親権を取り戻す調停でも、やっとこさ、娘の気持ちと、わたしの生活力(年収)で、親権を取り戻した。

娘はすでに、小学校に上がるころだった。

ところが、その時初めて小1の壁という言葉がないタイミングで、壁が来た。

1人で小学生に上がる娘を、フルで働いて育てるというのは、至難の技だった。会社に住みたいレベルだった。

その時のわたしは強かったw

絶対頭を下げるなんてするつもりのなかった両親の元に行き、「今まですみませんでした!」と、経緯や、これからのこと、そして、それに対してのお願いをしに行った。

土下座したw

両親もびっくりだろう。だって、勘当した娘が突然やってきて、土下座して、なおかつ、親権取り返してて、可愛い孫連れてきて、なおかつ、一緒に住んでくれ!!とお願いするのだから。爆笑

父も母も、年齢は今のわたしくらいだった。今思うと、そのくらいになってくれてたから、理解も示してくれたのだろうと思う。笑笑

しばらくして、父は仕事の関係で上海在住に。母もついていくという。両親のサポートがないと、当時はシステムは夜中メンテとか、徹夜で復旧とか、当たり前にやっていて、休日出勤も当たり前、今では考えられないハードな働き方だった。

そんな中で、両親サポート以外に当てられる手立てがなかった。学校終わって学童はすでに年齢制限超えている。わたしの帰宅は、学童の終わる時間とか意味なくて、朝方とか、そんなこともザラだった。

それをしなければ、食べれなかったから、他の方法を見つけきれなかった。

そんな時、母方の祖母が、協力すると言ってくれた。すぐに祖母の家の近くに家を借り、新しい生活を始めた。

が、祖母と同居してる母の兄弟の奥さんが、娘のことをとにかく嫌って、来ないでくれと何度も電話をかけてくるようになった。

祖母は、無視していいというが、小学生の娘は、叔母から酷い言葉をかけられたり、帰れ!来るな!と叫ばれたり、行くとこがなかったことがあったようだ。

娘は私を心配させないようにとそんなことをあまり言わなかった。わたしも、子育てしてるようで、正直、まともに子育てできてなかった。誰かにお願いしなければ、育てられない状況だった。

仕事を辞めれば、他にできる仕事なんかないし、考えてる余裕もなかった。子供のことも考えながら、仕事のこと、お客さんのこと、チームのこと、システムのこと、仕様のこと、うまくいくないところをどうかわしてくかという、毎日の激しい、こなすべきタスクが山のようにあって、その中に子供のことがちょこんってある感じ。

娘に至っては、参観日なんかほとんど行ったことがなかったし、行政の補償や補助のことなんか、想像もできなかった。

今のようにネットの情報も普及してなかったし、共有するママ友も、母も、子育てに関して相談する先が全くなかった。

若くして子供を持つと、周りはまだまだ遊び盛りで、子供を持っていても、100%家庭に入ってて、今のように頻繁にチャットとかできる環境でもなかった。

子育てを楽にする方法を、家族に頼ること以外、知る由がなかったのだ。

当時の私は、ネグレストに近かったと思う。今みたいに、サービスの充実もなかった。知る術もなかった。

子供は育てたいのに、子供をちゃんと育てられない…わたしって何のために仕事してたんだっけ…とわからなくなってきて、ある大きなプロジェクトをきっかけに、ふと、走るのを辞めたくなってしまった。

小学生の娘のことを案じた両親が、上海に連れておいでと言ってくれた。1ヶ月半、上海に疎開させた。ふっと、部屋を見渡すと、洗えてない食器、炊飯器の中で干からびた米、たためてない洗濯物、綿埃がフローリングの隅に当たり前のように鎮座してる現実。

大きなプロジェクトが終わり、ふっと、休みを取った。調整するのは至難の技だったが、半ば強引に取ったまとめての、はじめての有給消化。はじめて1人で旅行に行った。石垣島だった。

2002年とかそんな頃かなぁ。

よのなかが、こそだてするか、はたらくか、どっちかにしろと言われてるような時代を生きてきた。

ロールモデルはいなかった。

会社に預かってくれる仕組みがあれば楽だなと思った。仕事と切り離されてるから、優先順位を選ばなきゃならなくて、その選択に毎度毎度苦しめられてきた。

仕事とわたしどっちが大事なの!?と言われてるようなことが毎日だった。

仕事があると、周りに気を使って、自分のことが後回しになってしまっていた。

本当は、待ってくれないのは子供の成長なのに。思い出すと、胸が苦しくなる経験。しかし、当時のわたしには本当に余裕がなかった。

言い訳になるけれど、どんなに足掻いても、助けてと言える環境でもなかった。シングルマザーが働きながら子供を育てるって、年収がいいかどうかとか、キャリアとか関係ないやんか…と、いつも思ってた。

結果的に、キャリア捨てて子育てに集中しようと思う気持ちはすごくよくわかる。子供は自分の命を投げ出して良いと思える唯一無二の存在だからだ。どんなに頭に来るようなこと言われても、そう思える存在なのだ。

テキストでは言い表せない。そうじゃない母親もいるだろう。でもわたしはそうなのだ。人なんか知らん。

そんなわたし自身を救いたくて、娘に、その後に生まれた息子に対しては、本当はやりたかったけど、娘にできなかったことを息子にはせめてと思うような感じになっている。 娘には申し訳ない。

娘と息子は15離れている。

しかし、15年経っても、娘のような状況に、すぐに陥れる世の中だった。なんか、絶望したんだよね。

子供を産むなと世の中に言われてる気がした。

でも子供は可愛いだけでは済まされない存在。人1人育てるんだ。人間を、社会の一員を育てるのだ。ペットとは違う。

それってすごいことだよ。なのになんで、子供産んで育てることを拒否するような世の中なんだろう?って、思った。

良い学びの環境も与えたかった。シングルマザーでも、そのために働いてるつもりでも、なんせ時間がない。代わりの監督者が必ず必要だと思った。

いつまでもわたしが欲しい施設はなかった。

はじめて母親になって27年。

エンジニアとして、沢山の社会課題の解決といって、ないものを作れる立場になった。しかし、わたしの社会課題は解決されない。それも解決しないと、意味がない。

誰かが解決してくれるのを待ってることのナンセンスさ。だったら作ろう。下の子が1年生になる時には間に合わなかったけど、ようやくできたものが「テックパーク」です。

そりゃ、手厚くもなります。手厚くしようとするとお金もかかってしまう。でも、自分の人生も、子供の人生も、それぞれ豊かにしていくためには、誰かの協力なくして、できますマイカ。

その協力体制こそが、本来は「社会」のはず。

わたしの力なんか本当に微力すぎるけれど、せめて、社員や、わたしの周りだけでもと思って始めたのがテックパーク。


はあ、スッキリした。とはいえないが、この思いとか、記憶とか、苦い経験を思い出しながら、自分の不甲斐なさを噛みしめながら、生きています。

明日は息子の中学の入学式です。って、もう今日や。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?