見出し画像

콘크리트 유토피아 「コンクリートユートピア」


[콘크리트 유토피아]



「ある日、自分が住んでいるマンションだけが残ったら」

韓国でみた映画「コンクリートユートピア(筆者訳)」です。
ある日、自然災害によって、すべての地域が崩壊されました。
そして、唯一、マンション1棟だけで壊れず、残りました。
その時、あなたは、そして、住民はどのような行動をするのでしょうか。

最近のキーワードによく「ユートピア」と「ディストピア(滅亡)」が出てきます。

「未来は、「ユートピア」なのか「ディストピア(滅亡)」なのか

未来について考える時に、よく「ユートピア」か、「ディストピア」かを考えて話し合う時があります。
自然災害や異常気象による「ディストピア」は、人間の想像を超え、
現実味を増してきました。
韓国は、「マンション」という特殊な事情があり、「マンション」に対する欲望や人生、すべてが含まれている点から、もし、自分が住んでいる「マンション」だけが残ったらどうする?という韓国の事情をよく反映したテーマです。

「やはり住民以外は出入り禁止か」

当然ながら生き残った人たちは、唯一の「ユートピア」である「壊れてないマンション」に向かいます。誰が住民で、誰が外部の人なのかがわからないのは当然です。ケガをしている人もいれば、泣き出している子供もいます。
みんながつらい、みんなが助け合って、なんとか生きようと思っているはずでした。

「長くは続かないお互い様精神」

予想通り、長くは続きません。その”お互い様”精神です。
むしろ、”どうして、私は健康で、いられるのに、弱者を守る必要があるの?”と思う人もポツポツ出てきました。
そして、住民たちで会議が開かれます。
健全な意見を交換して、「投票」をしていきます。
果たして結果は?

「個人的な感想」

集団となった時の愚かさ

映画「コンクリートユートピア」は、私に大きな疑問を投げかけました。
正しい手続きの元で行った行為は、果たして正しい結論に導くのか。
まったく、関係ないかもしれませんが、映画の決め手となったのは、
「議論に基づく、会議を経て、被害を最小限に考えた結論」であり、
方法も「投票」ということです。そして、不正を防ぐために、様々な工夫をしていました。

ただ、その集団、そのものが、いわゆるマジョリティーが「マイノリティ」を考えてなければ、その結果は、マジョリティーに有利な結果しか得られません。
果たして、それでいいのだろうか。今までの社会は、このマジョリティー中心の社会で正しさとその健全さを目指していたのではないだろうか。

複雑な思考は避けられ、単純化したルールだけが存在

社会の構成員のことを考えると、あまりにもいろいろなことを考慮しなければなりません。大変な時間がかかることです。
そして、どうしても解決にはつながらないのかもしれません。
そこで、私たちは、「ルール」、できるだけ「単純なルール」を好むことになりました。例えば、「ブラック校則」などはその一例なのかもしれません。昔話になりますが、私が中学生や高校生の時は、髪の長さについて、女性は、「耳した何センチ」までと決まっていました。今考えると、自分の自由意志決定力を奪われたことに怒りすら感じます。でも、あの時は、その「ルール」を守ることに必死となり、「ルール」を守らない奴は、「不良」と考えていました。この二つの単純化されたルールは、その社会をそのまま反映し、思考もそうなります。「髪の長さ」と「不良」とまったく関係がないのにも関わらずです(いや、関係があるかどうかも調べられていないことが問題なのでしょう。)。

自分の中に潜んでいるマジョリティー意識を考え直す

自分の中にも数多く、マジョリティーさ(当たり前でしょうさ)があると思います。なかなか、表に出ず、考えることもないですが、
今回、映画を見て、私は誰なのかな、、と考えるようになりました。
結論は、「誰でもなれそう。。」です。
つまり、自分の中にある「おぞましさ」も見えてきたということです。
そして、それは、自分を防衛する「しょうがない」「仕方ない」
まるで、自分は、「羅生門」の「おばあさん」になった感じでした。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?