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記憶の研究を次なるステージに             ── 井ノ口 馨

井ノ口 馨 富山大学学術研究部医学系 卓越教授

Kandel 研での研究を終えて日本に戻り,三菱化学生命科学研究所に自分の研究室を構えることができました。まずは,研究対象をアメフラシからマウスとラットに移し,Kandel 研での研究を発展させ,長期記憶に関わる遺伝子の探索を行いまいた。

 でも,6〜7年と経つうちに,「これからは,自分独自のテーマを確立していかなければいけないだろう」と思うようになりました。そこで,2009 年に富山大学に移ったときに,研究テーマを大きく変更しました。つまり,記憶が脳にどのように「蓄えられるのか」を詳しく追究することにしたのです。

記憶痕跡の探索へ

 記憶がどうやって脳に蓄えられるかは,当時の研究の主流のテーマでした。記憶を保持している細胞のことを「記憶痕跡細胞」と言います。記憶痕跡を担う細胞集団の存在は,半世紀以上前から予測されていたのですが,それを実験的に証明することは,長い間できなかったのです。しかし光遺伝学の技術が登場したことによって世界が一変し,それを実験で調べることができるようになりました。

 光遺伝学の威力は本当にすごいです。脳は複雑で,それまでの解析では靴の上から足をかいているようなもどかしさがあったのですが,光遺伝学によって,まさしく靴をぬいで足を直接かけるようになったという感じでしたね。

 そんななか,2012 年,利根川進先生がマウスを使った実験で重要な発見を行い,Natureに発表しました。記憶痕跡を担う細胞集団が,海馬の中に確かに存在することを分子レベルの研究により実証したのです。マウスに,ある経験を記憶させ,その記憶を呼び起こさせる細胞集団を特定したのです。

 この発見によって,私は,自分が追い求めてきた記憶痕跡に関する最初の重要な疑問が,解かれてしまったように思えました。そこで私は,研究テーマを変更し,記憶痕跡の解明を次の段階に進めるべく,記憶がどのように「知識に昇華されていくか」に焦点をあてることにしました。記憶が脳にたくさん蓄えられると,その蓄積により人間の知識ができてくると思うのですが,1 個 1 個の具体的な出来事の記憶が,どのようにして知識や概念の形成に結びつくのか。そのメカニズムを調べることにしたのです。

記憶から知識の形成へ

 この問題にアプローチするために,私は手始めに,「2つの異なる記憶の間に新たに関連が形成される」ということはどういうことか,という疑問に着目しました。知識や概念は類似の記憶が関連づけられることで形成されていくからです。異なる体験に何らかの共通性があったときに,その2つの体験が関連づけられて,1つの記憶になっていきます。例えば,東京ドームに野球の巨人戦を見に行き,その帰りに銀座でフランス料理を食べたとします。後日,巨人戦をテレビで見たときに,銀座で食べたフランス料理のことを思い出したとする。野球を見に行ったこととフランス料理を食べた記憶が連結した記憶として関連づけられているわけです。

 マウスで実験を行って分かったことは,A と B という 2 つの別々な記憶が関連づけられると,それぞれの記憶を保存する記憶痕跡細胞集団 A と細胞集団 B が部分的に重なり合うようになる,ということです。重なりあった細胞集団は両方の記憶を持つようになるのです。例えば A という記憶もつ細胞が 1000 個,B という記憶をもつ細胞が 1000 個あったとする。この 2 つがだんだん関連づけられると,Aと B の両方の記憶をもつ細胞(重なっている)が 100 個くらいできるといった感じです。そして,A の記憶から B を想起するためには,この細胞の重なりが必要であることを明らかにしました(Science, 2017*)。

 またこのとき,A と B は関連づけられていても,それぞれの記憶のアイデンティティは保たれていますね。先ほどの例でいうと,それぞれの記憶は別物であるという認識は保たれていて,東京ドームでフランス料理を食べたとは思わないし,銀座で野球を見たとも思わないということです。どういう仕組みでこうしたアイデンティティが保たれているかについても,研究を行いました。わかったことは,記憶痕跡細胞のシナプス特異的な可塑性がこのアイデンティティに重要であるということです(Science, 2018**)。

アイドリング脳の研究へ

 この 2 つの研究に対しては,非常に高い評価をいただくことができました。記憶から知識形成へと踏み込んで解明できたことが評価されたのだと思います。研究においては,どのような疑問を抱くか,またそれをどういう方法で解くかを考えつくことが一番大事だと思いますが,それを考えつくための発想力では,まだまだ他のラボメンバーには負けない自信があります(笑)。面白いのは,そういうアイデアはリラックスしているときに急に思いつくことが多いことでしょう。ラボメンバーとディスカッションしたり,一人で黙々と悩んだりしても,何か月あるいは何年も良いアイデアが浮かばなかった課題の答えが,例えば温泉に入ってゆっくり過ごしていたときに,急にひらめいたりするのですね。

 現在は,これに関係したことを「アイドリング脳研究」という名のプロジェクトとして立ち上げて,研究しています。寝ているときやリラックスしているときの脳が何をしているか,の研究です。これをきちんと神経科学に立脚して調べた研究は,覚醒時の脳機能研究に比べて圧倒的に少ないのです。

 脳って,起きているときにはできないような情報処理を寝ている間にやっているんですね。例えば,起きているときの学習や記憶に対応する神経活動のパターンが,寝ているときにリプレイされていることを,私たちは光遺伝学やイメージングなどを使って明らかにしました。リプレイされると,2 つの別々な記憶が連結されることがあるかもしれない。それがアイデアひらめきのもとかもしれない,などと考えられ,楽しく研究を進めることができています。

 どうです? 起きているときの脳は氷山の一角で,海面下に隠れた巨大な氷山の本体が潜在意識下の脳機能かもしれないと考えると,とても面白いでしょう?



聞き手:藤川良子

* Overlapping memory trace indispensable for linking, but not recalling, individual memories.  Yokose J., et al. Science, 355: 398-402(2017)

** Synapse-specific representation of the identity of overlapping memory engrams.  Abdou K., et al., Science, 360: 1227-1231(2018)