見出し画像

脳が脳を知覚する

頭に思い浮かんだもの

小説のネタバレをしていいのかな? まあ,いいことにしよう。

テッド・チャンのSF短編集『息吹』は私が最も好きなSF作品の一つだ。SFファンだと胸を張れるほど詳しいわけではないので,この作品のSFとしての価値はよく分からない。しかし,科学的世界観を見事にフィクションへ昇華しているから,科学を好きな人間としては最高だった。『カンデル神経科学 第2版』の「知覚」を扱ったパートの扉文(校正)を読んでいた時に,同名の表題作である『息吹』の内容が頭に思い浮かんだので,今ここで突然こんなことを書いている。

人間は世界の情報をそのまま受け取れない

知覚とは,人間(にかぎらず生物)が,外界から情報を取り入れて処理する過程のことだ。視覚や聴覚などいわゆる五感のことだと思ってもらえればいい。私たちは当たり前に,目で見たものや耳で聞いたもの,手で触れたもの,舌で味わったものなど,感じたことはイコール世界そのものだと考えてしまうが,どうも違うらしい。例として,目に映る光景について考えてみよう(視覚以外でも同じ話なので,視覚のことが分からない人は他の感覚について想像してみてほしい)。目に映っていると人間が認識するものは,光のパターンそのものではない。網膜や脳で処理されて初めて,「あ,人が歩いている」あるいは「山があって手前に川が流れていて背景に青空が広がっている」というように,物体やら人物やらが組み合わさった一つの光景として認識される。目に入ってきた光には,ノイズを含め雑多で多くの情報が含まれているから,人間の脳はいらない情報を無視したり,過去の記憶と照らし合わせたりしている。人間が知覚するものは,外部の世界そのものではなくて,脳の中で構築されたものだと分かってきた。絵に近寄りすぎるとかえって何が描いてあるのか分からなくなるのも,こうした脳の働きのせいだ。

テッド・チャンの『息吹』

短編集の表題作である『息吹』は,機械人間が存在する世界を舞台にしている。我々のように炭素化合物からなる生物は作中に存在せず,金属の部品でできた機械の体を持つ存在が人間と呼ばれている。彼らの肺は金属製の空気ボンベだ。空気ボンベの空気圧で,体内のシリンダー類を動かすことによって彼らは「生きて」いる。当たり前だが,我々炭素生物も生きていくのに空気が必要だ。ブドウ糖などの炭素化合物と酸素を反応させてエネルギーを得るために,呼吸によって酸素を取り入れ二酸化炭素を吐き出す。全く使われ方は異なるが,機械人間も,肺が空っぽになって空気がなくなってしまったら生きていけない。だから彼らの世界では,空気は「生命の源」として扱われている。しかし彼らの機械の脳がどういう仕組みをしていて,どのように空気(正確には空気圧)を使っているのかは謎として残されていた。作中では,主人公である機械人間が,彼らの脳の仕組みを明らかにする実験の様子が克明に描かれている。圧巻なのはその実験の内容だ。主人公は,自分で自分の頭の中を観察する。脳のパーツを取り出して外殻を開き,その動作を顕微鏡で詳細に観察していく。この傍目からは異様な行為が,一切の言い訳なく淡々と描写されていく。論文調の客観的な文体がかえって不穏さを醸し出し期待を煽る。

自分自身の頭の中を観察した結果,機械人間の脳が考えたり記憶したりするために,絶え間ない空気の流れが必要だと知った。詳細は省くが,彼らの脳は,極小のそろばんが大量に並んだような構造をしていて,そろばんの玉を制御するために空気の流れが使われていたのだ。皆さんご存じのように,そろばんは,手で二,三度振るだけで玉の位置は初期に戻ってしまい,表示されていた数字は消えてしまう。それと同じように,空気の流れが一度途切れると,機械人間の脳は情報を失ってしまうことを主人公は発見した。この,「動き続けないと機能を保てないシステム」は,我々地球上の生命と同じだ。一度死ぬと戻らない。自動車やエアコンは,止めたり動かしたりを繰り返すことができる。『息吹』に出てくる機械人間は機械であるにもかかわらず,「生物学的」な仕組みで動いているところがこの小説最大の驚きであり感動だ。生命の本質をこんなにも鮮やかな形でフィクションに落とし込めるなんて。

脳が脳を知覚する

機械人間の主人公が自分の脳を観察している時,それを知覚しているのもまた自身の脳だ。主人公の脳が,主人公の脳を観察し,認識している。科学の中で,観察主体(脳)と対象物(脳)が同一なのは神経科学だけだと思う。脳を使って脳を観察・考察する行為は,鏡と鏡の間に自分を立たせた時のような,無限の入れ子構造を想起させる。「知覚」パートの扉文を読み『息吹』の内容を思い出すまで,この同一性について考えたことがなかった。おそらく,実際に実験をする時は他人の脳を観察するからだ。ボランティアや患者さんの脳を観察し,仕組みや病気の原因を探る。しかし,人間の脳は誰のものでも同じ原理で動くことを神経科学は前提にしているのだから,要は自分を自分で観察するのと同じことだ。

第2版の「知覚」パートの扉文は,プラトンから始まる。ここ10年ほどの間に研究が進み,人間は物をそのまま感知していないことが科学的に明らかとなり,より確信を持って知覚について記述できるようになった。だからこそ比喩的説明としてプラトンが引用されたのだと思う。プラトンのいう「影」を例に挙げ,外の世界の情報は,脳の中で再構築されることを説明していた。我々は自分達の脳をその影として知覚し,知覚された影を集めて特徴を理解しようとしている。それこそが神経科学の営みであり,今まさに影の本体に迫ろうとしている。

2022.9.25  牧野曜(@yoh0702)