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光遺伝学と冬の夜

神経科学の話をするべきこのnoteで,分子生物学の話をしよう。

分子生物学が何なのかきちんと定義しようとすると話がかなりややこしくなるので,ここでは簡単に「遺伝子の機能を調べる」研究分野あるいは研究手法だと言っておく。一方,神経科学は神経や脳の仕組みを明らかにする分野だ。お互い一見まったく異なる分野だけれど,脳・神経だけでなく生物の機能のすべてに遺伝子が関係しているのだから,分子生物学と接点のない生物研究はない。さまざまな遺伝子からさまざまなタンパク質が作られ,作られるタンパク質の種類によって細胞の機能が決まる。さまざまな種類の細胞が集まって生物の体が作られるのだから,遺伝子が生物を規定していると言えるだろう。こうした,「遺伝子を調べていけば生物の仕組みは分かる」というのが分子生物学的な考え方だ。歴史的な経緯としては,ワトソンとクリックが,遺伝子の物質的本体はDNAの二重らせん構造だと明らかにしたことにより,遺伝子の機能が具体的に調べられるようになった。その結果生まれたのが分子生物学で,その手法はあらゆる生物研究へ拡散していった。

分子生物学を専攻する研究者が集まるのが分子生物学会で,毎年十二月に開かれる学術集会は,ある種のお祭り,フェスだった。参加者は一万人を超え,それだけ大きな学会を開催できる場所は,横浜,神戸,福岡にしかなかった。天井が高く暖房の全く効かないポスター会場を,電話帳のように分厚い抄録集を抱えて回った。千以上あるポスター発表の中から興味のあるものを選んで話を聞く。くたくたになって外に出るとすっかり日が暮れていて,会場から漏れ出た光ででできた薄暗がりにも人が溢れていた。冬の夜のこの光景は,分子生物学会の映像的なイメージとして私の脳に記憶されている。大学院生の一群は,夏祭りの灯りから外れた場所で盛り上がる高校生のようだったし,異なる研究分野に散らばった昔の同僚や先輩との再会を楽しむ研究者たちもそこかしこにいた。多分野の先端的な研究成果が交換される会場には,静かな興奮が満ちていた。分子生物学会は,分子生物学をよすがに生物学の全てのジャンルが集うフェスだった。

分子生物学会は今でも巨大な学会で,学術集会も相変わらずお祭りのようだが,会員数は2005年にピークを迎えて以降漸減している。新規の入会者が減り,学会員の平均年齢が少しずつ上昇しているらしい。私が初めて参加したのはちょうどピークを迎えた年で,それから十年ほど参加していたので,最盛期をちょうど越えた頃の分子生物学会を見ていたことになる。一方,神経科学系の学会,例えば日本神経科学学会は,絶対数こそ分子生物学会より少ないが,会員数を伸ばし続けている。また,神経科学系の学会が集まって開催されたNEURO2022も盛況だったと『カンデル神経科学』の編集者の方から聞いた。神経科学が盛り上がっている理由は様々あり,その一つに,前回のnoteで触れた光遺伝学による技術的なブレイクスルーが挙げられる。今日のnoteの主旨の通り,光遺伝学の成立にも分子生物学は大きく貢献した。何せ,現在の生物学で,分子生物学の影響を受けていない分野はほとんど存在しないのだから。繰り返しになるが,分子生物学はあまりにも強力な研究手法だったので,あらゆる研究分野に浸透した。その結果,普遍的で当たり前の存在になった。スマートフォンが普及し,日々の生活の中ではその存在すら意識されなくなったのと似ているかもしれない。分子生物学会の会員数が減少しているのは,分子生物学が普遍的になりすぎて,一つの分野として捉えにくくなったからだと思う。神経科学研究は神経科学学会に,がん研究は癌学会に戻った。分子生物学会が会員数を減らしていることはすなわち,分子生物学の「完璧な勝利」を意味しているのだと言っておきたい。

補足として,すでに社会に還元されている分子生物学の成果を挙げておくとすれば,それはがん治療だろう。現在使われている抗がん剤の多くは,遺伝子(タンパク質)の異常がどのように細胞をがん化させたかについて調べた研究に基づいている。つまり,がん治療には,「がんの分子生物学的研究」の成果が使われている。

さて,光遺伝学は,光を当てることにより,対象となる神経細胞(ニューロン)の活動を制御する技術だ。制御する方法は色々と開発されている。代表例として,チャネルロドプシンと呼ばれる遺伝子を使った方法について説明してみよう。専門的な内容に踏み込むので,面倒な方は次の段落を飛ばして,「詳細はともかく,チャネルロドプシンタンパク遺伝子をあらかじめ組み込まれた神経細胞は,光を当てると活性化される」と考えてもらって差し支えない。

一般に,刺激を受けた神経細胞では,細胞の外から中へ電流が起きる。この電流(正確には電位)が長い神経繊維を伝って次の神経を刺激する。こうして神経細胞はネットワークを作り出す。アルファ波やベータ波などの脳波も,神経細胞の電流(電位)の集まりを計測したものだ。ということは,人為的に電流を起こしてやれば,その神経ネットワークを活性化させることができる。そこで使用されるのが,クラミドモナスという藻(も)から見つけられたチャネルロドプシン遺伝子だ。チャネルロドプシン遺伝子から作られるチャネルロドプシンタンパク質は細胞表面にあって,光を感じる(光子を受け取る)と,細胞の外から中に電流を流す性質がある。正確に言うと,細胞膜を貫通して存在するチャネル(ゲート)であるチャネルロドプシンタンパク質は,光子を受け取ると構造が変化し,イオンがチャネルを通り抜けられるようになる。

分子生物学的な手法は,チャネルロドプシン遺伝子の機能を調べる過程でさんざん用いられた。別に最初から神経科学のために研究されたわけではない。クラミドモナスはこの遺伝子があるおかげで,光の来る方向に動くことができるらしいので,その性質に興味があったのかもしれない。あるいは,光エネルギーを電気エネルギーに変えられる物理・化学的性質に惹かれたのかもしれない。結果として,光を用いて神経細胞を制御しようというアイデアが生まれた。アイデアを実装するためにはチャネルロドプシン遺伝子を都合の良いように改変しなければならなかったが,そこでも分子生物学は使われている。

正直ここまで書いてきて,当たり前のことしか言っていないのではないかと途方に暮れている。分子生物学に触れたことのある人が読んだら同じように感じるかもしれない。それだけ分子生物学が当然の技術になっているからだと思う。それでもあえて今回取り上げたのは,隣の青い芝生を眺めるように触れてきた神経科学と自分の,最大の接点が分子生物学だからだ。私は神経科学のことを理解していない。もちろん生物学の基礎的な知識を通じてある程度はわかっているのだけれど,それに加えて,分子生物学という共通の実験技術を窓口に,神経科学や他の生物分野を眺めている節がある。だから神経科学に触れるたびにあらためて分子生物学のことを語りたくなってしまう。

2022.8.1 牧野 曜(twitter: @yoh0702)