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進化の隣人たちは何を感じて何を見ていたのだろう

締切間際に原稿を書いていて良いことはほとんどない。しかし今回はそのお陰で,ノーベル生理学・医学賞が発表されてから取りかかることができた。今年の受賞者であるスバンテ・ペーボ博士は,ネアンデルタール人やデニソワ人などの,すでに絶滅してしまった人類の仲間(旧人類)の遺伝子が,我々,現生人類のゲノムに混ざっていることを発見した。

ゲノムは,言ってしまえば,生物の体・細胞を作っている部品の仕様書であり,それらの組み合わせによって製品(体)が形作られる。同じ部品を使っても様々な製品を作ることはできるが,車の部品からロケットは作れないように,おおよそのところは部品の種類によって規定されるはずだ。つまり,人間の持つ遺伝子によって人間の脳の構造や性質が決定される。人間がどのように感じ,どのように考え,どのように動くのかは,我々の遺伝子によって決まるわけだ。人間のゲノムが今のようではなかったら,人間はまったく異なる方法で世界を認識していたかもしれない。

突然なんでこんなわけのわからないことを言い始めたのかを説明するために,機械のことを考えてみよう。例えば,ルンバの目的は掃除をすることだ。部屋をくまなく掃除するためには,障害物を見つけるためのセンサーや,壁にぶつかったときに方向を変えるためのプログラムが必要だ。外界の情報を取り入れるためにセンサーが存在し,その情報をもとに,あらかじめ組まれたプログラムによって必要な動作を命令する。同じように,生物も目的のためにセンサー(感覚)とプログラム(神経ネットワーク)を持つ。生物の目的は,種の存続だ。もう少し具体的な要素に分解すると,餌を集めること,危険を避けること,交配することの三つであり,これらの目的のために,情報を集め,判断し,行動する。感覚や,認知,判断,運動のすべては脳と神経が統括していて,どのような脳と神経を持つかは遺伝子が規定している。

ネアンデルタール人やデニソワ人には,彼ら独自の世界観(世界の感じ方)があったのではないかと思う。きっとそれは我々とは異なるものだっただろう。しかし,少なくとも交配できるくらいに,つまり最低限の意思疎通ができるくらいには,似ていたに違いない。では,もっと遺伝的に離れた生物だとどうだろう。もちろん同じ人間同士でも,個人ごとに感じ方や考え方が違う。それはそうなのだけれど,ここでいっている世界観の違いとはそれとは全然レベルを異にするものだ。例えば,ものを数えるための数の概念があるかどうかとか,時間を時間として認識しているかどうかとか,そういう類の話だ。

人間は直線的な時間軸を生きている,と思っている。昨日の 1 日と今日の 1 日は同じ長さだと考えているし,昨日は二度と訪れない。ちょっとだけ言い訳をしておくと,人類史全体にわたってそう感じてきたのかといえば必ずしも当てはまらないかもしれない。昔は,毎年循環するように元に戻ってくる時間の捉え方もあったそうだし,季節によって変わる日の出と日の入りの間を等間隔に区切っていたこともある。とはいえ,ある個人が二度生まれることも二度死ぬこともないし,生まれる前に死ぬこともできない。

人間の持つ時間の感覚はその程度にしか幅がないが,ヤーコプ・フォン・ユクスキュル(ドイツの生物学者・哲学者)の提唱する環世界的な世界であれば話は変わってくる。血を吸うために待機しているダニにとっては,時間はずっと止まっていて突然動き出すのかもしれないし,そもそも時間の概念自体がないかもしれない。

しかし一説によると,数億年前から存在する最古の多細胞生物の一つである海綿にはすでに,神経細胞の元となる細胞が存在しているらしい。だとしたら,人間の脳は,海綿の細胞が数億年かけて進化した神経細胞によって形作られているのかもしれない。これは想像にすぎないが,海綿と人間がぜんぜん異なる生き物だということを考えると,それぞれの生物が,脳やそれに類するものを使って世界を覗き見る方法は,我々が思っているよりずっと多様だということになる。

研究には縦軸と横軸があって,今話題にしているのは神経科学の縦軸の方だ。時間にともなって変化してきたその様子を調べる。一方の横軸は,今現在の現象を扱うことを意味していて,多くの研究者が,人間も含めて色々な生物の脳や神経の仕組みを明らかにしようとしている。中でも,人間の脳は,生命科学的にも医学的にも哲学的にも,最近ではコンピュータサイエンス的にも興味のある対象だから大いに盛り上がっている。しかしながら,縦軸(進化)の研究も同じくらい魅力的だと,今回のノーベル賞はあらためて宣言しているように感じられた。進化学は,何億年にもわたる,おそろしく長い時間軸を度々扱う。そのために実験や観察が不可能なケースが多くて,特に取り組むのが難しい分野だと思う。その分,多くの人が興味を抱くような,普遍的な疑問を解き明かす学問領域としての魅力に溢れている。

長い進化の中で,それぞれの生物はそれぞれの脳や神経を持ち,我々とは異なる世界の捉え方をしながら,少しずつ長い時間をかけて進化してきた。今我々が感じているものは,進化の中の,ほんの一瞬の通過点なのだと思う。

2022.10.11 牧野 曜(twitter: @yoh0702)