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記憶を探る人 ── 宮下保司先生 その2

 宮下保司先生のもう一人の師は,あの有名なペンフィールド博士です。本郷の医学部 1 号館*の 2 階にある文庫と呼ばれる図書室で,100 年以上前の本も並ぶ蔵書の中から興味深い本を発掘するのが好きだった大学生の宮下青年。そこで,ペンフィールドの本に出会ったのです。

 1891 年生まれのペンフィールド(Wilder Penfield)は,カナダのモントリオールで活躍した脳神経外科医。神経科学の教科書でペンフィールドの名が載っていない本はない,と言っていいくらい,よく知られているでしょう。あの一度見たら忘れられない特徴的な図(カンデル神経科学 第2版の図を引用)を作った人と紹介したほうが思いあたる人が多いかもしれません。体の各部位に対応する大脳皮質の領域を特定したことや,大脳連合野内で高次認知機能が分担されている様子を示したことなど,神経科学の研究における歴史的にも重要な業績で知られています。
(『カンデル神経学 第2版』を「Penfield」で検索すると,本文だけでも 9 回ヒットしました。図説や参考文献も入れると21回もです)

 以下は,宮下先生の言葉です。

学部学生のとき,"文庫"をさまようのが好きでした

 1970 年,脳科学を研究しようと思っていた僕は,伊藤正男教授のすすめもあって東大物理学科に進み,同時に伊藤教授の生理学教室(生理学第1)にも顔を出していました。生理学第1の研究室は,4 階建ての医学部 1 号館の 1 階と 3 階にあり,2 階と地下には薬理学教室が入っていました。僕が気に入ってよく出入りしていた2 階の図書室は,生理学と薬理学教室の共同文庫でした。

 共同文庫には新しい本がたくさんありましたが,古い本もずいぶん収蔵されていました。おそらく 100 年分余りのコレクションだったでしょう。もう手に入らないような本もたくさんありました。その中をさまようのは,今現在に巷で “流行っている” 研究を超えて、本当に探求すべき大切な問いはいったい何なのか,を過去の碩学と対話しながら考える素敵な時間でした。実際にそこで出会った 1 冊こそ,ペンフィールドが 1954 年に出版した『Epilepsy and the Functional Anatomy of the Human Brain(てんかんとヒトの脳の機能的解剖学)』でした。この本は現在でも手に入りますが,すごく面白いんです。

ペンフィールドが作った大脳皮質の地図


 ペンフィールドは,局所麻酔をかけててんかんの患者さんの脳の疾患部位を切除する手術を行ったのですが,その際に,機能保存しなければいけない重要な部位(例えば言語関連領野)の位置を知るために,電極で脳の一部分を刺激しました。その際の観察をもとにして,体の部位が大脳皮質のどこに対応するかという地図も作りました**。動物を使った地図はもっと以前に作られていたのですが,それをヒトの脳に関して作ったのです。ヒトと動物の地図は,大きく違っていて興味深いものでした。ヒトの場合,顔や手指,舌の占める脳の面積が,実際の体各部のサイズと違ってすごく大きい。要するに,人間がよく使うところは,脳が大きいんです。この「電極で刺激して脳を人工的に活動させる」という研究手法は,脳の活動とそれが引き起こす心身現象との因果関係を調べるうえでも重要で.それは現代においても変わっていません。

 その研究が学問的にもうひとつ重要なのは,ペンフィールドは脳を電極で刺激した患者さんに,どんなことを感じるか言語で答えさせたことです。これは記憶の想起などの研究において特に画期的なことでした。「今どんな気持ちですか」「どんな感じがしますか」という問いに対して,「今こんなものが見えています」と患者さんが答えてくれるわけですから。本人に言語で答えてもらわないと,他人にはわからないことです。電気刺激と言語的報告とを組み合わせる方法で,脳の特定部位の活動と主観的経験との関係がわかったのです***。

何よりも、ワクワクさせられるんです


 大脳皮質の機能局在の解明,電気刺激による脳活動の因果性の追求,脳活動と主観的経験の橋渡し──これらが,ペンフィールドの研究の学問的重要性です。

 でもね,僕が言いたいペンフィールドの一番の面白さは,そこではないんです。 
 何よりも,ワクワクさせられるんですよ。
脳と心の関係が新しい自然科学的方法によってどんどんわかってくる・・・ワクワクするほど,面白い本だったという点を言いたいんです。
 ペンフィールドが,電極で脳を刺激すると,患者さんが答えるんです。こんな気持ちがしますとか,昔行った場所が見えます,とか。刺激を与える部位をわずかに変えただけで,全然違う答が返ってくる。
 えーっ,そうなんだ,ってものすごく興奮しました。この面白さは,やっぱり絶対ペンフィールドですよ。そして僕は,脳の高次機能,大脳皮質の研究をしようと決めたのです。

 まずは,伊藤先生の研究室で,小脳を対象にニューロン1個1個を刺激し,その活動を記録する研究手法を修得しました。今回の『カンデル神経科学 第2版』の表紙にある,プルキンエ細胞,顆粒細胞や平行線維を相手にして実験したのです。そしてその後は,オックスフォード大に移り,この手法をベースとして大脳皮質を対象に研究を始めました。

                  * * *

 2022 年夏,この話をzoomで語ってくださった宮下先生の声は高揚し,目は輝き,50 年前の宮下先生の興奮が画面越しに伝わってきました。ワクワクするほど面白い本との若き日の出会いが,脳の高次機能の研究への導きとなった ── 宮下先生の言葉は,『カンデル神経科学 第2版』の,1700 頁にも及ぶ原稿や校正を読むという地道な作業を何ヶ月も続けてきていた編集部の皆の気持ちを,どれほど励ましてくれたことでしょう。2022 年夏,一冊の本との出会いが人の将来に,人々の生活に,影響を与えることがあるという宮下先生からのメッセージは,編集作業にあたっていた私たちを励まし,エネルギーを与えてくれました。このメッセージとエネルギーが,皆さまにも届きますように。

2022.08.22  Yoshiko Fujikawa

*    医学部1号館:1931年竣工の4階レンガ建て建物。

**  気刺激の影響:ペンフィールドが用いた電極は大きく,当時,脳の深部にまで影響を与える可能性が指摘された。その後,微小電極を用いた実験で,ペンフィールドの発見が基本的に正しいことが確認されている。

*** 言語表現:言語での返答で明らかになった事柄は,動物実験などで再確認することが現在では行われている。