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ブランドジャーナリズムをどう認識するか?

 以下の徳力氏のnoteにこちらが引用されており、同時にfacebookに彼が投稿していたのでコメントを入れました。そちらの文章を少し直して書いておきます。

 そもそも、ジャーナリズム=公平・中立であるとか、市井の人たちがそう思ってるとは限らないのに、「ジャーナリズムとはこういうものである」という信念みたいなものが、「企業所属のジャーナリスト」という考え方への“理解”を妨げてるんでしょうね。

 ブランドジャーナリズムや今回の件での界隈の反応を見ていると、新しい概念が出てきたときに、それを一歩引いて、あるいは俯瞰的・メタ思考的に考えることの重要性を感じます。

 企業の在り方が社会的な責任やパーパスを伴うものであれば、それは企業活動は中立かつフェアでなければならないと論理的にはなるわけで、であれば、「ジャーナリズム(ジャーナリスト)は中立・公正でなければならない」ということとなんら矛盾しなくなります。

 また、「ジャーナリスト」というのを「企業所属なんておかしい、中立性に欠ける」というのであれば、報道機関所属という位置づけの「ジャーナリスト」の皆さんは、“企業所属”であり同時に中立であると言えるのか?(本人たちはそうあろうとしているのはわかるが、実態として報道機関ごとに色があるのは中立性があると言えるのか?など)といった質問が投げかけられるでしょう。

 ちなみに、メディアリテラシー教育では、メディアの流すものは切り取られたもので、公平・中立ではない可能性が大きい、ということも学びます。となると、ジャーナリズム=公平・中立だと考えてるのは、ジャーナリストだけかもしれませんね(もしかするとジャーナリストのメディアリテラシー教育が必要ってこと?)。

 そして「ジャーナリスト」を“報道機関やフリーで公平性・中立性を伴なったニュースを届ける人”という「職業」と考えるか、「技能」と考えるかの違いもあると思います。

 ちなみに私の認識では、「ブランドジャーナリズム」と「コンテンツマーケティング」は同じものではなく、後者はマーケティングのいち手法として企業側の伝えたい商品情報などを伝えるものですが、前者については「社会」との向き合いの中で企業における「事件・出来事」を追って公開していくためのもの、という認識です。なので brand journalism という言葉を初めて見たときに、「なるほど、これは企業自身の在り方の変化の結果、出てきた概念なのだな」と理解をしております。

 特に米国で brand journalism が語られるときには、企業には trust の重要になってきている、とか what you are, what you represent about, what you provide, what you care about を語ることと言った話が出てきます。もちろん彼の国でも brand journalism は新しい広報テクニックというふうに言ってる人もいますが、本来的には not “the thing that sells the thing” というものです。

 ※徳力氏がfacebookにて上記記事を投稿していた際についていたコメントで、「ブランドジャーナリズムはステマというふうに海外でも見られてる」というコメントもありますが、実はそのように言ってるのは、海外でも(一部の)ジャーナリスト側からの意見である、ということも「公平・中立」的にはお伝えしておきたいところです。

 “企業所属のジャーナリスト”ということを考えるときに、“企業所属”と聞いた瞬間に「商業的でバイアスがかかっている」と考えて拒否反応が起きる方々がいるのは容易に想像できるところですが、あまりにもそれ多いのは、“ジャーナリズム”とは逆の発言、行動に思えます。そのため一連の騒動?について私は以下のようにも思うわけです。

 「ジャーナリストとしての態度なら、はなから否定から入るのではなく、諸事実やどのような定義かを複数調べて、また社会の変化を捉えた上で、中立・公平にトピックを扱うべきでは?自分の聖域を侵してくる奴らは許せないというような態度ではなく」

 ちなみに今回のような件もそうですが、ブランドジャーナリズムというのは企業広報の在り方も問われてるということに思います。

 現在、広報学会において「広報」の概念についての再定義に関するプロジェクトが動いています。

 ここ数年は特に顕著ですが、広報・PR的な手法を用いる「情報戦略」や「マーケティングPR」と名付けられた“マーケティング手法”が拡がり、それがすなわち広報・PRなのだ、と勘違いしている人たちも見受けられます(特にベンチャーやSaaS界隈)。

 本来的には広報やPRというのは、企業とステークホルダーとの良い関係づくりの活動なのですが、それが商品を売るための手段として歪曲化というか、手法だけとりあげられて理解されてるのはイマイチ良くない事態であると思います。

 しかし一方で、“企業とステークホルダーとの良い関係づくり”と言っても、社会の変化や(上述したような)社会的存在としての企業というものを考えると、“ステークホルダー”のみならず、“社会”に対峙する必要があります。こう考えると、ますます“ジャーナリスティック”な視点が企業内に取り入れられる必要が出てくるのは必至である、というのは論理的帰結として理解できるわけです。 

 そして“社会”という視点をより取り入れるべきであるということについては、広報・PRのみならず、マーケティングにおいても必要でしょう。広報・PRが“ステークホルダー”のみならず“社会”にも対峙しないといけないのと同様に、マーケティングも“カスタマー”だけでなく、“社会”にも対峙しなければならない。このことについては本文章のフォーカスしたいところではないこで、またどこかで。

追記)「ジャーナリズムを名乗る限り、広告や広報と一線を画すべき」という意見も見ましたが、これはそもそも「ジャーナリズムとはなんぞや」とか、「広告とは?」、「広報とは?」という議論をもってして、ようやく行える議論ですね。そもそもそれぞれが社会的な変化の中で、役割や定義が変わってきているわけで、“一線を画す”どころか、接合点を見つけたり、融合してきてる部分もあることを認めるべきでしょう。

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