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「ブランドジャーナリズム」は、ジャーナリズムという「技法」と「社会的存在」としての企業への「問い」という交差点に存在する

 この文章は「ブランドジャーナリズム」が企業の「広告」や(都合のいいことだけを並べた)「広報」ではないということの確認と、「ジャーナリズム」とはなんぞや?ということについて、思考の整理としてまとめたものである。おそらく新聞社の一部の人の中には、以下の文章について眉をひそめる人もいるかも知れないが、しかしこれはこれで一つの「現実」であり、そして「可能性」であることをも多少頭の中で思考実験をしてほしいと思う。

 もちろん全ての人がそうではないのだろうけど、アナウンサーがトヨタに入ることをおかしいと言ったり、「ブランドジャーナリズム」は「企業に”隷属”してるジャーナリズム」と言ってみたりするのを、(特に)新聞界隈の人たちで見かける。

 これは、我こそがジャーナリズムそのものであり、社会に貢献していて読者の支持されてるのだ、という「矜持」から来ているのかもしれないが、これには二つの「?」がある。

 まずそもそも、ブランドジャーナリズムのようなものに対して、企業に”隷属”という言葉を使う時点で、こうしたものは商業主義なのだという偏った見方をしてないか?ということ。これについては、記者職にある人はえてして自分が所属しているメディア企業の事業に興味を持たず、ビジネス感覚が身に付いていないことに関係しているように思う。いや、でもそれだと、記者はメディア企業のビジネス部門に食わしてもらってるわけで、それってあなたたちも”隷属”してるわけじゃん、メディア企業に、と思ってしまうのだが。

 二つめの「?」は、そもそも「ジャーナリズム」は、職能やスキル、技法ではないのか?という点。もし「ジャーナリズム」が、社会的な出来事を扱い、それを読者に届けるという「職業」なのであれば、それはメディア企業に勤めているか、あるいは契約関係にあるジャーナリストでないと、「ジャーナリズム」ではない、となる。むしろこれは、「ジャーナリズム」というものを、自らメディア事業体の中で閉じ込めてしまう、メディア企業所属の「ジャーナリスト」の内向性によるものであり、スキルや技法の可能性を外で使われるチャンスを閉じてしまっているように思う。従来の「ジャーナリズム」と「ブランドジャーナリズム」の違いは、扱うものが社会的なテーマ(だと記者が信じるもの)か、あるいは企業体のニュースなのかの違いなのであるが、果たしてそうしたテーマの違いで、それが「ジャーナリズムであるか否か」を分けられるものなのだろうか?もしそれが真なら、「ジャーナリズム」と言うのは技法などではなく、やはりメディア企業に”隷属”した職種に過ぎないという話になってしまう。

 結局、「ブランドジャーナリズム」を「ジャーナリズム」として認めないという勢力は、むしろ「ジャーナリズム」の可能性を狭めているのではないか?

 そもそも今は企業の在り方が、社会的存在としてどういうものか?という視点で問われているのであり、そうなると、企業が発信する情報も従来的な「宣伝」や「広報」であるわけにはいけない。むしろ、社会的存在として、社会的なテーマやニュースとして扱われるようにしていかなければならない。だから、「ブランドジャーナリズム」というジャーナリズムの技法が必要になってくるのは必然なのである。逆を言えば、「ブランドジャーナリズム」は単なる広告や広報であってはならない、ということでもあるだろう。

 こうした観点から考えると、次のような会社が生まれるのも潮流を考えれば必然であると思うし、

 あるいは新聞社が(例えば子会社を作って)企業の「ブランドジャーナリズム」を請け負うという事業にも可能性はある。

 今までも新聞社の中には企業のタイアップやオウンドメディアを請け負う業務は存在していたが、それらはあくまでも企業の(主に)広告活動の支援事業だった。この点においてそれらは「コンテンツ制作」の事業ではあったが、「ジャーナリズム」の事業ではなかったのではないか?と思う。もし上述したような「ブランドジャーナリズム」を引き受ける事業があったとすれば、企業のもっているストーリーやトピックと、ジャーナリズムが得意とする人々の関心事=社会的な関心事として出来事を見る、というところから「ニュース」が生み出されることに、何も違和感を感じる必要はないように思うのだ。そうした視点で生み出された記事は、企業に”隷属”した記事なのではなく、社会に”従属”した記事なはずなのだから。

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