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【第9回】正直TKA,過去-6

阪和第二泉北病院 阪和人工関節センター 総長
格谷義徳 かどや よしのり

帰国当時の日本のTKAをとりまく状況

私が帰国して大学勤務を始めたのは1995年の4月である。1993年に附属病院が建て替えられ,引き続き医学部新学舎が建設中という活気に溢れた時期で,整形外科の医局は看護婦寮に仮住まいしていた(入る時はちょっとドキドキした)。

平成5(1993)年 5月に竣工した現医学部附属病院。威風堂々であった。
Windows 95日本語版発売,帰国当時はApple userだった。だんだんWindowsが優勢になり,学会等でも使えなくなってきたので鞍替えした。懐かしい時代である。

既に2年後輩の大橋弘嗣先生がフランス留学から帰国して,THAを中心に診療していたので,自然と私がTKAをやることになった。余談になるが,大阪市大は(全国的に見ても何処のもそうだったのかも知れないが),伝統的にTHAが強く,尊重される文化・風土であった。とは言え,えり好みが出来る立場でもなく,手探りでTKAを中心に始めて見たのだが,やってみると“ないないづくし”である。

  • 同僚がいない,先輩もいない,当然グループもない(TKA関連の人脈は皆無)

  • 使用したい機種は手に入らない(Freeman prosthesisは未輸入)

  • 論文も発表もない(留学中の論文はOsteolysisの病理,TKA関連は皆無)

  • 学内,学外とも信頼・知名度が全くない(上記より必然である)

勿論一番“ない”のは自身の“臨床経験”や“実力”なのだが,それを言ったらお終いなので,“自分のTKAは本家本元や”と言う自負だけで,肩肘張って毎日過ごしていたように思う。初めての大学勤務で,事務方や看護部のお役所的な考え方や,働きぶりには驚かされたが(目にどんどんウロコが着いてくる感じ),なんと言っても当時のTKAを取り巻く状況自体が“別世界”であった。

とにかく“あり得ない”と感じることの連続だったが,その根っこはTKAと言う術式に対する評価が低い上に,レベルが低かったと言うことだったと思う。よく考えてみれば,様々な問題のあった日本のTKA業界が,私の留学中に急に文明開化しているはずもなかったのである。レベルが低いのだから,評価が低いのも当然なのだが,一番深刻な問題は“別世界”であるという認識(病識)が無いと言うことであった。当時私に浴びせられた?言葉を列挙してみよう。“TKA何を入れても一緒や”というお決まりの台詞は別にしても,

  • PCL切除するの!? あるものは使った方が良いんじゃないの?

  • PSって角が生えてて気持ち悪い(今から思えばすごい表現・・)。

  • 俺はポリエチレンは8mmしか使わない。

  • TKAだけやってても外病院では通用せえへんで。

  • 何で骨切りしないんや? やらなあかんし,出来るようにならなあかん。

等々あったが,極めつけは,教室の伝統? として言われた“砂漠でも通用する医者になれ”という言葉であった。これは教室の創始者から受け継いだ当時の教授のモットーであり,大切な真理を含むのはとてもよく分かる。しかし大学でTKAを専門にしようとしていた当時の私には,到底受容(理解)不能であった。

Stubborn kid

このように旧主流派の諸先輩(当然新参者の我々に好意は持っていない)や,昔お世話になった先輩からも色々言われて,少し凹んだこともあったが,今から思えば元気もあったし,自負心だけは強かったのだろう。

“TKA何を入れても一緒や”→“先生がするから一緒なんです”
“何でPCL切除するの?”→“(ACLの無い)片刃の鋏が切れますか?”
“PSって角が生えてて気持ち悪い”→“・・・・,三日すれば慣れます”
“俺はポリエチレンは8mmしか使わない”→“〇△☆◆◎?・・・・”
“TKAだけやってても外病院では通用せえへんで。”→“大学にいる私が,今考える事ではないでしょう”
“骨切りは・・・”→“TKAしかしません。大学で少ない症例を分散しても意味がありません”
などと生意気なことを言って抵抗していた。流石に
“砂漠でも通用する医者になれ”→“砂漠に行くつもりも予定もありません”
とは口に出しては言えなかったが,内心は強くそう思っていた。臨床的な実力も実績も無かったが,“あり得ない”と感じる(本場で培われた)感性,が自分の武器であることは自覚していた。”なんか違う“&”あり得ない“と感じたのなら,それに従うのが唯一の道(方向性)だったのである。

(つづく)


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