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最近考えていること

ストレス社会と言われている現代において、精神的な要因による症状が出現するのはもはやありふれたことと言えるかもしれません。

しんどくて朝起きられない、むかむかしてごはんが食べられない、頭痛がする、おなかが緩い、動悸がするなど身体的な症状の場合もあれば、イライラする、眠れない、不安にかられるなどの精神的な症状の場合もあると思います。

このような症状を訴えて病院を受診したときに、身体的な要因が何も見あたらなければ、心因性という言葉を使う時があります。(もっとも、多くの人々はいわゆるセルフメディケーションといって、自分で薬局などで購入した対症療法薬で対処していると思います。)

心因性の場合、症状の出方が興味深いなあと感じることがあります。いわゆるうつ病のように自分の内側へベクトルが向くタイプの人と、周囲の人を巻き込む(暴力暴言など)といった外側へベクトルが向くタイプの人がいるという点です。

例えば「内側タイプ」の人でいうと、
"50代の元会社員。職場での人間関係に悩んだ末に退職した。退職後はしばらく穏やかに過ごせたが、だんだん退職したことへの後悔やこれからの生活への不安が強くなった。いったん考え出すと止まらなくなって最近は自責の念が強く疲れている。"
といった例が挙げられます。

一方で「外側タイプ」の人でいうと、
"60代の元会社員。適応障害と言われて退職したのち、様々な仕事を転々としたがどれも長続きしなかった。イライラや不安が募るとすぐに腹が立って暴言を吐くこともあり、家族との関係も疎遠になってしまった。"
といった例が挙げられます。

もちろん、架空の症例ですが、どちらの症例でも簡易的な診断としては
「適応障害⇒抑うつ状態」
となる可能性があります。後者の症例では易怒性と言われるかもしれません。今後、「診断するとは何か」ということについても議論したいなと思っていますが、この症例の人たちにうつ病ですねというメリットが何もありませんし、診断したところで何も前に進まないと思います。

やはり、同じ状態(ここでは適応障害と抑うつ状態)を出発点として、なぜ別々の症候(ここでは自責の念と他者への暴言)に至るのか、というところを考察するのが重要だと思います。

少なくとも、まずは症状をとってあげること、症状を進展させないことが重要であるのは間違いないはずで、抗うつ剤や気分安定剤などが必要かもしれません。ただし、その根源はどこなのかということについても、考えてみたいなあと思うわけです。

一方で、それを考えたところで何かが良くなるかと言われると難しいところです。診断するということはそれによって患者の利益にむずびつく必要があるはずで、「○○と診断しました、でも治療はできないです。」と言われると、たしかに原因がわかってすっきりするというメリットはあるかもしれませんが、それ以上でも以下でもないと思います。(もちろん、特殊な疾患では診断するだけでも非常に重要な意味をもつ場合もありますが)

話を戻しますが、同じ状態なのに症候が違うという現象がおこるのはなぜかという問題のヒントは「発達」にあると思います。それは「発達の過程」のこともあれば、発達の結果としての「パーソナリティ」かもしれません。もっと細かく見ていくと、神経細胞のネットワークの作られ方、もしくは作られた結果としてのネットワークがキーかもしれません。自分自身もここは勉強不足なので勉強してみたいと思います。

数字で表されるエビデンスだけを用いれば、医療はAIで完結するはずです。適応障害、抑うつ状態に出す薬は検索すればヒットすると思います。人間の医師の価値を見出すとすると、それは究極の個別化医療を行うことにあるはずだと自分は信じています。その人の話を診察室という設定された場面では人対人として傾聴し、エビデンスに落とし込まれていない部分で、何を聞き出すか、何を検査するかを考えて、どうすればbetterに持っていけるかを考えるという一連のプロセスこそが、僕たちの仕事のはずなので、まだまだ自分は精進しなければなりません。

とりとめがなくなりましたが、
①診断するとはどういうことか
②病前体質・性格が症状にどう関係するか
③AI vs 人間で考えた時の人間の医師の存在する意味
最近はこのあたりについて考えています。

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