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女 性 診 療 放 射 線 技 師 の リ ア ル ラ イ フ ~私のライフステージ~ 小国町立病院 放射線科│伊藤真理

仕 事 編

Q.診療放射線技師を目指したきっかけ
A.中学生の時に観たTVドラマで、女性外科医が赤いスポーツカーで出勤し、白衣で颯爽と歩く姿に憧れるようになりました。しかし、外科医になるには到底学力が足りず断念。白衣を着る職業の薬剤師、診療放射線技師、理学療法士の中で、自分の学力と家庭のお財布事情にマッチしたのが診療放射線技師でした(笑)。「ラジエーションハウスを観て診療放射線技師に憧れる」とはぜんぜん違う不純な動機で、診療放射線技師の仕事すら知らないままに技師学校へ入学し、物理が苦手な私がその後、地獄のような日々を過ごすことになるのは言うまでもありません。そして、赤いスポーツカーには未だに乗れていません。

Q.やりがいを感じるとき
A.前の職場を退職する時、救急科の先生からかけていただいた言葉で、それまで自分のやってきた仕事に対する姿勢は間違ってなかったんだと、初めて大きなやりがいを感じることができました。日々の業務の中では、患者さんからの何気ない一言に一喜一憂しますし、どんな場面でも「頼りになるね!」のフレーズをいただいた時にやりがいを感じ、モチベーションのバロメーターが上がります。

Q.私の職場遍歴
A. 県立病院で働きたかったので、新卒で募集がない→ならば募集出るまでパートで繋ごうと決意し、産代要員として県立病院で4ヶ月勤務しました。
 次は精神科の病院で1ヶ月間の引き継ぎ&研修後ワンオペ勤務でいろんな経験をしました。ポータブル撮影で鉄格子のある部屋にも行きましたし、自動現像機の掃除も1人でできるようになりました。病院から脱走した患者さんを捜索しにも行きました。ひとり職場でしたので、他職種の人との関わり方や、個人病院ならではの利益追求の雰囲気を学ぶことができました。
 大学を卒業して2年経ち、ようやく県立病院職員の採用試験があり合格しました。パートで勤務経験のある病院に配属され、7年間勤務しました。その間に結婚と出産し、一軒家のマイホームを建て始めると同時に中央病院への異動となりました。
 それから9年間、家庭を顧みずがむしゃらに働きました。その間に乳がんに罹患し手術、化学療法、そして離婚。7年前に片道65km通勤していた県立病院を退職し、今は片道24kmの県立病院でのんびり(??)働いてます。

Q.学会・研究会参加
A.学会は自分のやっていることが間違ってないんだと確認できる場でもあります。同じ方向をむいている、同じ熱量の仲間たちと出会うことができます。発表をしたり聴いたりが目的かもしれませんが、私はそれ以上に人脈
を広げるために参加していました。たくさんの仲間と出会うことで、世界が広がったと思っています。

Q.診療放射線技師になったからこそ得られたもの
A.①全国にいる仲間
 
仲間と言っても、中には重鎮の方もいます。学会だけでなく、SNS上でも気軽に声をかけてくれます。生き方が素敵で憧れのお姉様方もいます。悩み事を一蹴し、たくさんのアドバイスをしてくれます。一緒に同じ方向へ歩いてくれる仲間たちもいます。友人として仕事以外でも私のために号泣してく
れたり、隣で笑ってくれます。頼もしい後輩たちもいます。どんどん新しいことを私に教えてくれます。年齢も幅広く、全国各地に仲間がいるってすばらしいと思っています。
 ②今ある命
 診療放射線技師になって、まずは認定試験のためにマンモグラフィをはじめ乳腺分野の勉強を始めました。女性なら避けては通れない登竜門です。認定試験が終わってからも、何かと乳腺外科の先生と接する機会が多かったり、ピンクリボン活動に参加したり、この分野に関わっていきたいと思っていました。
 しかし、その矢先に自分が乳がんを罹患しました。セルフチェックをしていたから「しこり」に気づき、マンモグラフィで石灰化を見つけて、1人目の主治医のおじいちゃん医師と相談しながら手術と術後治療を開始しました。術後2年目で同い年の女性医師が2人目の主治医になり、化学療法を勧められ、即決断し治療しました。そのあと、自分で納得できるフォローアップをしてくれる先生を頼って転院し、10年以上経過した昨年、リンパ節再発がみつかりました。「こんなところをエコーで見つけるなんて3人目の主治医はやっぱりスゴイ!」と感動してる場合ではなく、すぐに大学病院に紹介され、同い年の男性医師が4人目の主治医になりました。私の意思も尊重しつつ、最善の治療をしてくれて、今は2度目の手術が終わり、術後治療中です。
 今こうして生きていられるのは、診療放射線技師として働いているからこそ出会えたみなさんのおかげだと思っています。

プ ラ イ ベ ー ト 編

Q.仕事との両立について
A.念願の県立病院で働き始め、仕事をひと通り覚えた頃に、結婚と妊娠。つわりがひどく、使い物にならない新人でした。働くことができずに先輩に迷惑をかけていると落ち込んでばかりの妊婦生活でした。
 働けなかった焦りもあり、育休はほとんど取らずに娘を生後3ヶ月でチャイルドホームに預け、仕事に復帰しました。しかし、娘が原因不明の肝機能障害で入退院を繰り返し、勤務が終わると病棟に泊まり、朝そのまま出勤することも度々で、小児科の先生には「子供を殺す気?」「育休取らないの?」など怒られたこともありました。その頃は、とにかく必死で両立しようともがいていたと思います。娘が1歳を過ぎるとすっかり健康優良児になり、入院することもなくなったおかげで、話し初めも、歩き初めも、卒オムツも全部チャイルドホーム…子育てしたという感覚がありません(笑)。娘は小さい頃に私とTVを一緒に観た記憶がないとよく言います。でも、寂しくなかったと。母娘共々、いろんな人に支えられながら生きてきたんだなぁと思います。

Q.美容事情
A.ストレスをためないことが一番。発散方法はいろいろありますが、大好きな友達と飲みに行ったり(コロナで気軽に行けなくなって悲しい)、温泉に行ったりして、お互い話しまくるとリセット完了です。最近、セルフのまつ毛エクステを始めたので、学会や勉強会で出番のある時やおうち時間に、まつ毛をバサバサにしてテンション上げてます。

Q.乳がんと共に生きる
A.乳がんになり、初めて患者目線でひと通りの検査と治療を受けましたが、診療放射線技師として見慣れた検査室の景色と全く違う景色で、不安でいっぱいになったのを今でも覚えています。CTの造影剤が体に入った時の衝撃的な感覚、MR検査での両手バンザイの腹ばい姿勢、放射線治療中の皮膚のタダレとうつ症状、術後のマンモグラフィの痛さ…想像をはるかに超える辛いことばかりでした。診療放射線技師にとってはその日の予約のうちの1検査ですが、患者にとっては、常に再発の不安を抱きつつ、年に1度のフォローアップ検査は大イベントだという気持ちもわかりました。そのような経験をふまえて、患者さんに寄り添った検査をできるようになったことは、私にとって財産となりました。
 最初の手術から10年以上経過し、完治したと思っていたのに「再発」。2度目の手術は腫瘍を完全に取り切ることができませんでした。4人目の主治医に「わかっていると思いますが、これからずっと治療が続くので…」と言われた時は、さすがに凹みましたが、「他に悪さをしないように、コントロールしながら一緒に生きていくしかない」と切り替えました。
 乳がんになってからは、「将来のために…」とか、「老後のために…」とか、「あとでやればいい…」ではなくて、「やりたいことは今やろう!」と、いい意味で「死」を意識しながら生きるようになりました。なので、自分らしく生きるために離婚し、娘と一緒に過ごす時間を何よりも優先したいから転職もしました。10年スパンで人生を考えると、ダラダラと悩む時間が減り、行動に移すのが早くなりました。まさに今を生きる! これから第2ステージの10年も楽しんで生きたいです。

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