見出し画像

FREEDOM by Swami Dayananda Sarasvati

本稿は、恩師であるスワミ・ダヤーナンダ・サラスヴァティの講義をまとめた本のひとつであるFREEDOM(英文)を、クラスの資料として使用するために訳しています。正しく理解するためには、必ずクラスに参加してください。更新しながら書き進めていく予定です。

1.FREEDOM FROM LIMITATION 制限からの自由

 「私」の存在を確立する為には、何の証明も要りません。私は自明な存在(self-evident)であり、そして、他の全てのものは、私に対して明らかになる存在です。自明であることから、自分の存在の為に、私は他の何にも依存していません。全ての経験において、私は不変の要因です。私が「見て」いても、「聞いて」いても、「味わって」いても、「触って」いたり、「匂いを嗅いで」いても、「私」の存在は否定されません。(それらの中で)私は常に存在しています。私は音を聞き、形を見て、感触や味や香りを楽しみます。ある対象物が私の視野から去っても、「私」の存在はあり続けます。それ(私の存在)は、他のものを対象化する為に、存在し続けます。ゆえに、全ての知識の形において、私は変化することなく常に居続けているのです。

 では今、テーブルと椅子のような、ふたつの対象物について考えてみてください。ひとつのものの存在は、もうひとつのものの存在に依存していません。もし椅子が破壊されても、テーブルは存在していられます。同様に、テーブルが取り除かれても、椅子は存在しています。このふたつは共存していて、それぞれは互いから独立しています。しかしこの世界には、相互に依存しているものもあります。妻なしに夫は存在しませんし、夫無しに妻は存在しません。ひとつのものの存在が、もうひとつのものの存在の原因となっているのです。しかしながら、この世界と私の間の関係は、相互に独立したものでも、相互に依存したものでもありません。私は、あらゆる対象物から独立して存在していますが、対象物の存在は、不変である自分自身という私に依存しているのです。

対象物は別のものに還元される

 私の手には発砲スチロールのカップがあります。もし私があなたに、「私の手の中にあるのは何ですか?」と訊いたら、「カップです」と答えるでしょう。そこでもし私が「これは発泡スチロールです」と言ったら、私は正しいのでしょうか?間違っているのでしょうか?私は正しいですし、「カップです」と答えたあなたも正しいです。ここで私達は、ひとつの対象物について言及するのに、ふたつ別の言葉を使っています。どちらの言葉も間違っているとは言えませんし、どちらかが正しくて、どちらかが間違っているとも言えません。もしどちらも正しいとしたら、どちらとも同等に正しいのでしょうか?もし、ふたつの言葉が同等に同じ対象物を指しているのなら、それらの言葉は同義語のはずです。ウォーターとアクアは同義語で、同じものを指すのですから、「ウォーターにアクアを入れて持って来て」とは言うことはありません。もし、「発泡スチロール」と「カップ」も同義語なら、カップのあるところには必ず発泡スチロールがあるはずですし、発泡スチロールがあれば、それはカップであるべきです。

 しかし現実は違います。カップは発泡スチロールである必要は無いし、発泡スチロールはカップである必要はありません。それぞれに意味する対象があるからです。しかし、ここにあるのは、発泡スチロールのカップという、ひとつだけの対象物です。ゆえに、どちらの言葉も正しいですが、どちらも同等に正しいのではない、と知る必要があります。どちらかひとつは、もうひとつより、より正しいはずです。どちらがより正しいのでしょうか?「カップ」がより正しいという人がいます。私は「発泡スチロール」がより正しいと言います。考えてみてください。この発泡スチロールのカップを二つに裂いたら、カップはどこにありますか?

 前にも、発泡スチロールがあると私は言いましたし、今でも、発泡スチロールがあると言えます。私の発泡スチロールはあり続け、あなたのカップはもう水を保持できません。("holds water" という英語の表現は、信頼できる、理に適う、正論である、という意味があります。)疑いの余地なく、カップは今はもうありません。それは、発泡スチロールから立ち去ったのでしょうか?それは違います。なぜなら、カップと呼ばれる独立した対象物など全く無いからです。あるのは、あなたがカップという名前で呼ぶ、特定の形だけです。それを成す実質的な物質無しに、カップについても、どのような対象物についても、考えることはできません。カップは、その実質的な構成要素(substance)に、その存在を頼っています。そして、ここでの実質的な構成要素は、発泡スチロールです。しかし一方で、発泡スチロールは、カップに依存していません。カップに関して言えば、それは、それ自体で存在しています。しかしながら、発泡スチロールでさえも、また別の実質的な構成要素に還元できることから、最終的な要素ではありません。最終的な要素は、これ以上還元できるものではなく、他の要素にその存在を頼っていないものです。ゆえに、最終的な要素は、対象物ではあり得ません。なぜなら、形を持つあらゆる対象物は、他のものに還元できるからです。

ヴェーダーンタとは、ふたつの現実に関する教え

 対象物としてあり得ないものは、それ自体で存在し、他のものに全く依存していない、変わらない「私」である、主体であり得ます。つまり、この「私」は「satya(サッティヤ、真実)」と呼ばれる、最終的な要素であり、他の全てのものは、その存在を、サッティヤに依存しています。依存しているものは、サッティヤでもなければ、無(存在していないもの、non-existent)でもなく、虚構(false)でもありません。存在していないカップは、水を保持することはできません。ある形において、それはカップと呼ばれ、水を保持します。この依存したリアリティ(存在に関するあなたの理解)は、無でも虚構でもなく、「mithyā(ミッティヤー)」なのです。

 ヴェーダーンタにおいて理解するべきことは、サッティヤとミッティヤーという、たったふたつの現実だけです。ミッティヤーの定義は、「他のものの存在から自分の存在を得ているもの」です。それゆえに、全ての対象物はミッティヤーです。例えば、私達が「車」と呼ぶ対象物は、何百もの部品が組み合わされて出来たものです。もし車から鉄を取り除けば、どこに車があるのでしょうか?車はそれ自体で存在するもの(self-existent)ではありませんが、イリュージョン(幻覚)でもデリュ―ジョン(妄想)でもありません。それはミッティヤーです。あなたはそれを、知る手段によって知ることが出来て、それは役に立つものです。

 何か対象物が存在するとき、「私」という意識があります。そして、その対象物が破壊されたときでも、「私」という意識は存在し続けます。それゆえに、「私」という意識は、あらゆる対象物から独立しています。同様に、熟睡の中で、時間と空間が解消されたとき、それでも「私」という意識はあります。もし意識が眠りの中に無ければ、起きたときに、眠っていたのはあなただとは言えません。ゆえに、「私」という意識は、時間と空間のどちらからも自由なのです。「私」という意識は、歴史の中の私だけではありません。それは、記憶や人格によって形成されているものでもありません。それら全ては「私」という意識に依存しています。それらもミッティヤーであり、「私」という意識のみが、全ての属性から自由で、サッティヤなのです。

 もし「私」のみがサッティヤで、他の全てがミッティヤーなら、「私」と比べ物になるものは何ひとつありません。事実、ひとつのサッティヤに、ミッティヤーを足しても、ふたつにはなりません。なぜならミッティヤーは、サッティヤから離れた存在ではないからです。発泡スチロールにカップを足しても、依然として発泡スチロールです。考えてみてください。宝石商が1トンの金塊を購入し、その金塊から、百万個の装飾品を製造するとします。かれは様々なサイズや形のチェーンやバングル、指輪などを創ります。ここに、ふたつの違うものがありますか?1トンの金塊に、百万の装飾品を足しても、答えはひとつです。それゆえにヴェーダーンタは、真実はノン・デュアル(ふたつとない)と言うのです。

 ヴェーダーンタは、一元論(monism)ではありません。Mono とは1という意味で、1という数は常に分割して複数にすることができます。ひとつのユニヴァース(宇宙)があるけれど、銀河は複数あります。ひとつの銀河には多くのシステム(恒星を中心とした惑星の体系)があります。ひとつのシステムには複数の惑星があり、ひとつの惑星には複数の大陸があり、ひとつの大陸には複数の国があり、ひとつの国には複数の州があり、ひとつの州には複数の郡があり、ひとつの郡には複数の家があり、ひとつの家には複数の煉瓦があり、ひとつの煉瓦には複数の原子があり、ひとつの原子には複数の素粒子があります。ひとつとは、どういう意味ですか?事実は、ふたつめのものは無いのです。ひとつに、ミッティヤーを足しても、ひとつに変わりありません。これが、私たち(ヴェーダーンタ)の言う、ノン・デュアルです。サッティヤはひとつであり、それがあなたです。この世界の全て―知っているものと知らないものの全て―を足しても、ひとつに変わりありません。この知識は、これから見ていくように、人生に偉大な変化をもたらします。

もし発泡スチロールが人間のマインドを持っていたら!

 カップが人間の心を持っていたら?と考えてみてください。それは今、自己意識を持っています。自己意識のあるマインドを持つと、自分についての何かしらの意見を持ち、さらに、私達が持っているような、コンプレックスを持つようになります。マインドのあり方は(私達のものと)同じで、カップは「私は小さなカップだけど、お隣は大きなカップです。人々は冬でも私に冷たい水しか入れてくれませんが、あのカップには砂糖が入れられて、心地良さそうです。あの磁器を見てください。人々はそれを布巾で拭きながら大切に扱い、常に食器棚にしまっています。だけど、誰も私の事なんて構ってくれません。私なんか使い捨てで、長持ちせず、すぐに死ぬ日が来るでしょう。」

 カップは落ち込んで、この問題の解決を探します。ある人は、特別な食事が必要だとカップに教えます。朝にはスプラウトを食べて、夜には玄米と豆を食べるようにと。別の人はカップに、頭への血流を良くする為に、ヘッドスタンドを毎日するようにと教えます。それは確かに効果のあることですが、もしカップが間違った考えをしていたなら、頭への血流が良くなったら、さらに多くの間違った考えをすることになるでしょう!カップはただ、逆さまのカップになるだけです。カップであることには変わりありません。他の何かになる訳ではありません。また別の人は、内側の奥深くにあるアンコンシャスを取り除かなければならないと教えます。さらに別の人は、自分の奥深くに潜り、本当の自分のあり方 ― 発泡スチロール ― を発見しなければならないと教えます。

もしカップが教えを受けたら

 しかし、もし私(スワミジ)がカップに教えるなら、それらのことは言わないでしょう。ただ、「あなたはカップではありません。真実は、あなたは発泡スチロールでなのです。」と教えるでしょう。カップは発泡スチロールですが、発泡スチロールはカップではありません。それが自己の本質の知識(self-knowledge)です。カップは、自分がカップであることを恐れる必要は無いのです。もしカップが壊れても、「私」は壊れないということを知らなければなりません。もしカップが、「私」は自然分解しない発泡スチロールだということを知っていたら、「私は死に行く者だ」という結論は無くなるでしょう。発泡スチロールのカップが百万個あったとします。もし私がカップなら、私は他のカップとは違うし、他のカップは私と違います。しかし、もし私が発泡スチロールなら、他の全ては「私」です。私はそれらのどれでもありません。全てのカップは私に存在しています。なぜなら、私がそれら全ての本質、サッティヤだからです。

真実の認識

 そうである時、必要なものの全ては、ただこれだけの認識です。自明な意識である「私」はサッティヤで、他の全てはミッティヤーです。身体は「私」であり、感覚器官や考えは「私」という意識を持っているけれども、「私」はそれらのどれでもありません。知る人と、知ること、そして知られる対象の全ては意識を持っているけれども、「私」という意識それ自体は、それらのどれにも依存していません。私が在るから、それらは照らされているのです。それらはその存在を、私に依存しているのです。ゆえに、本質的に世界は、私とは別に存在していないのです。世界と私との間に分離が無いなら、私を制限するものなどあり得るでしょうか?時間の制限も、空間の制限も、対象としての制限の、あり得ません。なぜなら、その「私」から見て、全ては「私」だからです。考えてみてください。カップが知識を持って、「私」をシフトしたら、カップに戻った時、それは悟りを得たカップです。(「知識を得た」という代わりに、一般的に使われている「enlightened=悟りを得た」というユーモアの表現を使っている。)カップとしては、それなりの制限を持ち、ある程度の水しか保持できません。しかし今、それは、カップの制限を楽しめるほどに、自由なのです。

 同様に、この世界がミッティヤーなら、本質的にあなたに危害を加えることは出来ません。世界はあなたを不幸せにすることは出来ません。あなたは、幸せになる為に、もしくは本当の自分を発見する為に、何ら考えを取り除く必要はありません。それは、水を発見する為に、波を取り除く必要が無いのと同じことです。私達の問題は、「私」とは考えだ、と間違った考えをしていることです。自分達のこと考えだと誤って自己認識し、悲しくなったり不幸になったりしています。解決は、考えは「私」であるけれども、「私」は考えではない、と認識することです。考えている時でさえも、私は自由なのです。物乞いの役柄を演じている間も、役者は自由であり続けるように。

 このことを認識できると、世界はあなたに問題を起こせなくなります。ヴェーダーンタは、個人の身体や心や感覚器官にある制限を取り除くことはしません。ヴェーダーンタは、それらの制限にもかかわらず、個人は既に自由であることを理解させるだけなのです。

2.FREEDOM FROM ISOLATION 孤立からの自由

 「私」は、他の全てとは異なる

 あらゆる経験において、経験者である主体と、経験される対象の、両方があります。見たり、聞いたり、匂ったり、味わったり、触れたり、という感覚的経験は、主体と対象の間の分け隔てが関わっています。これら全ての経験は、経験されている世界とは違う人を、明らかにします。見る人として、聞く人として、味わう人として、考える人として、あなたは主体、経験者であり、経験の対象は、あなたとは離れた存在です。

 あなた以外の全ての人は、あなたの経験の対象物です。その誰もが、経験者であるあなたではありません。さらに、この世界の誰でも全ては、同じことが言えます。ゆえに、他の全ての人は、あなたの経験の対象であることから、あなたとは違います。これはあなたが、他の全てのものと違う人であることを確立しています。
 「他の全て」とはこの宇宙の全てであり、あなたは、多くのものから成る宇宙において、小さな塵に過ぎないという意味で、その他の全てから離れています。この広大な宇宙の中で自分を見て、「私は、これらの無数のものとは違う存在である」と言います。自分の事を、宇宙の中の無数にあるものの中のひとつであるとは見ないで、無数にあるものから違う存在だと見ています。あなたが見ているものの全ては、「あなたが」みているものです。それらは「見られている」もので、あなたは「見ている人」です。存在する全てものである、見られているものは、あなたとは離れていて、あなたはそれらとは離れています。ゆえに、あなたの経験は、見られるものと見ているもの、知られるものと知る者という違いを含んでいて、小さく孤立した、他の全てと違う存在を明らかにしています。そして、それが心地良い経験であろうとなかろうと、全ての経験において、これは裏付けされているのです。

熟睡の中では、孤立からの自由がある

 この、自分は他のものとは違うという経験とは対照的に、別の経験の形があります。それは、孤立からの自由である、(夢を見ていない状態で眠っている)熟睡の経験です。熟睡の中では、何も見えないし、何も聞こえないし、何も考えません。ゆえに、考えている主体と考えられている対象の違い、見ている者と見られているものの違いが存在しないのです。眠りの中には違いは存在しませんが、これもひとつの経験です。なぜなら、眠りを経験したものとして、その眠りと自分は関わっているからです。起きた時に、その眠りの経験を思い出して、「よく食べた」と言うのと同様に、「よく寝た」と言うのです。どちらにおいても、過去の出来事を思い出していて、現在そう述べている自分は、過去の出来事の経験者と同じだからです。もしあなたが眠りの中にいなければ、そして、あなたは今ここにしかいないのなら、寝たという事実に自分を関連付けることは出来ません。ゆえに、同じ「私」が、熟睡し、夢を見て、そして、起きた時に、その同じ「私」が、起きている人となるのです。眠りの中の経験は、孤立したものではありません。それは、あなたは毎日、熟睡しているときはいつでも、自分のことを孤立から自由な存在だとして経験しているということです。

歓びの瞬間における、孤立からの自由

 この孤立からの自由は、何からも隔絶されていないような瞬間があることから、起きている状態でも起こります。幸せな経験をしている時が、悦びの瞬間です。この悦びの瞬間において、あなたは自分のことを隔絶された存在ではなく、自由な存在だと見ています。星空や、日の出や夕陽、音楽を聴いている時や、赤ちゃんの笑い声が、時折そうさせるように、あなたは、自分を孤立させていない世界、あなたを満ち足りた気持ちにさせている世界と関わっている自分を発見します。主体と対象の関係という分け隔ては、そこにはありません。主体である自分においても、星空や日の出、夕陽においても、分け隔てはありません。(主体と対象の)関係にもかかわらず、対象が自分を孤立させていないように感じます。自分の小ささを感じないので、あなたはそれらとひとつであるようです。実のところ、対象はあなたを喜ばせているようです。一方で、もしあなたが、それらと分断されてると感じていて、自分を孤立した存在だと見ていたら、星空を楽しんだり、赤ちゃんと一緒に笑ったりなど、出来なかったでしょう。

二種類の矛盾する経験

  そうしたら、ふたつのタイプの経験があります。ひとつは、「私は小さな存在だ」という孤立の経験、ふたつめは、孤立していない経験という、様々な対象物の認識にかかわらず、完全にひとつとなっている経験です。

経験を得ることは、孤立からの自由ではない

 孤立していない経験が一度であれば、小ささや孤立に耐えられなくなります。孤立の無さと完全に満ちていることを、再三探し続け、そして、人間関係での衝突を避け、周りとの協調の中で生きようと試みます。衝突が起きたら、孤立を経験し、それは、私達が経験から知っている、完全に満ちている存在とは反します。いろいろなことをして、この孤立感を解消しようと試みます。しかしながら、いろいろなことをすればするほど、孤立を感じます。運良く満たされた経験を得るかもしれませんが、あれこれ経験しても、完全に満たされ、孤立感から自由になるという決まりはありません。

何かを捨てることも、孤立からの自由ではない

 逆に、自分の持ち物を捨て去っても、満足感は保証されません。自分が捨てた物を、棚から牡丹餅のように拾う人がいるからです。満たされている為に(何があれば良い、もしくは、何かが無ければ良い、という)決まりなど無いという事実が分かるのは、自分にヴィヴェーカ(分別の力)が得られたということです。そうなれば、何かを見たら孤独になるという訳でも、何かを得たら孤独から自由になる訳でも無いとも分かります。

人間の奮闘は、ふたつの相反する経験に端を発している

 さらに、人間の幸せ探しの追求は、孤立感の無い経験と、孤立感の経験という、これらふたつの相反する経験に起因しているということも分かります。なぜ人間が、自分のことを小さくて孤立した存在として受け入れるのが、そんなに難しいことなのかが分かります。自分は小さいという認識は、それと反対の経験と相反するからです。

ヴェーダーンタは、孤立感の問題を扱う。

 これらのふたつの相反する経験に取り組む中で、どちらの経験が自分の在り方に忠実なのか、考えてみなくてはなりません。小ささが自分の本来の在り方なのか?それとも、満たされていることなのか?小さく感じる為に頑張っているのか、満たされていると感じる為に頑張っているのか?幸せな状況では、その幸せにしがみつこうと努力します。幸せを放棄して孤立感を得る為の努力はしません。それとは反対に、何も変えたくないと感じられる幸せな経験を維持する為に努力します。ゆえに、自分が寛げる経験とは、求めることからの自由がある経験ということは、明らかです。その経験は、自分にとって自然な、自分の真実であるはずです。自然かどうかは別として、それが、自分が唯一努力して欲しがっている経験です。それが本当なのかそうではないのか、半々なのかといったことは考えなかったとしても、その、満たされているという、たったひとつものが欲しいのです。

 ゆえに、これらの相反する経験は、自分の毎日のコミュニケーションにおける基準の枠組みを形成しているのです。もし、これらの相反する経験が消されたら、人生で努力する人などいません。自分が経験する取り組みは、衣食住を得るためだけのものではありません。それらを得ても、人間は尚、何かを求めているからです。あなたが欲しくて努力しているものは、自分の置かれている状況との調和が感じられるよう、自分の孤独感を超えることなのです。目に見える状況が何であれ、その状況が自分の宇宙を形成しています。周りの人々との調和が得られないなら、この宇宙との調和を感じることも出来はしません。この宇宙の全ては、実際のところ、あなたに直近のいくつかのものだけに他なりません。あなたの宇宙を構成するのに必要なのは、一人の人だけ、或いは一輪の花だけです。花を見ている時、それが宇宙です。それが、あなたが調和を成している、全世界なのです。孤立感を取り除いて、調和を感じている時はいつでも、自分に寛げています。調和の中で、自分は自分を完全な人だと見ています。

 ヴェーダーンタは、この孤立感の問題と、孤立感から自由になることへの望みを扱っています。ヴェーダーンタは、あなたの経験に言及し、そこにおいて自分が寛ぐことができる、望ましいもの、そして求めるべきものは、自分自身であると教えます。その自分自身は、作られるものではありません。達成も、喪失も、自分自身を作りません。完全であることが、あなたの本質なのです。

孤立感は、誤った自己認識によるもの

 もし、私が時折経験するように、私が完全なら、何が私を完全から引き離しているのでしょうか?私が眠っているときは、私は孤立を感じません。私が起きている時は、常にではないけれど、孤立を感じます。時折、幸せで満たされていると感じます。私のあり方と反するこの孤独は、何が創り出しているのでしょうか?この世界や、感覚器官、あるいはマインドだとは言えません。なぜなら、私が幸せな時はいつも、私を幸せにしているこの世界を見ているマインドもあるからです。感覚器官や世界もあります。それらのどれも、私を孤立させません。

 私を孤立させているのは、自分に関する認識、そして結果的に世界に関する認識でしかあり得ません。この認識は「自分は孤立した存在だ」という結論に基づいた「人生は苦労だ」という確信によって特徴づけられます。この確信は、相反する経験があっても、無くなることはありません。時折、孤立から自由である自分を経験するけれども、その経験は自分は孤立した、小さな存在だという結論を打ち消しません。その経験は、ただ私の欲求を吹き飛ばして、孤立から自由にします。なぜならそれは、私にとっての妥協できない基準になるからです。その幸せな経験は、自分が満たされているという確信になるよりも、自分が調和のある経験を探すための苦労を続ける理由となります。

この、自分はこの宇宙から離れていて、宇宙は私を捕まえて圧迫しているという結論は、経験では取り除かれません。なぜなら経験は知識にならないからです。人は経験から学ぶべきで、経験から学ばれることが知識だと言われますが、経験は直接的な知識の根拠を提供します。ある対象物の直接的な知識が欲しい場合、その対象物を経験したときのみ、その知識が得られます。しかし、経験そのものは知識ではありません。その経験そのものを知らなければなりません。

自己の本質の知識を得ることは、孤立からの自由

 全ての人は自分を、完全な存在だと経験していたら、なぜ、私は小さく分離されていると感じるのでしょうか?それは、経験は来ては去っても、自分の本質の知識を持っていないからです。もし私が、自分が完全だと知っていたら、どうしてその知識に反して自分をその反対だと結論できるのでしょうか?それはできません。太陽が沈んだ後に、太陽は存在しないと結論できないように。経験の上で太陽は沈んでも、太陽はあると知っています。太陽は見えなくても、私のマインドの中では、太陽は無くなっていないと知っています。同様に、自分は小さく孤立した存在だと言う結論は、自分の本質と反していて、それが問題になっています。両方のタイプの経験を分析して私がそうではないと学び、自分の本質は完全であると知るまでは、この結論は永遠に無くなりません。

 この知識が得られたら、何が起きるのでしょうか?自分は完全だと認識したら、この世界を見ていても見ていなくても、何をしていてもしていなくても、あなたは完全なのです。完全は、自分が何かしたり、しなかったりすることで凹むことはありません。この知識は「解放」「自由」と呼ばれます。それのために、全ての人が愛し、もがいているのものです。

(続く…)

3.FREEDOM IN ACTION 行動の中の自由

4.PRAYER - INNER FREEDOM 祈り―内なる自由

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?