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突然の事故

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平成19年10月16日

OBSニュース(平成19年10月16日) 
16日夜、宇佐市で帰宅中の女子高校生が車にはねられる事故があり、意識不明となっています。運転手の男は自動車運転過失傷害の疑いで現行犯逮捕されました。

事故があったのは宇佐市畑田の市道です。警察の調べによりますと16日午後6時20分頃、この道路を自転車に乗って帰宅していた高校1年生の浜崎奈那さんが後ろから走って来た軽四トラックにはねられました。この事故により浜崎さんは意識不明の重体となっています。警察は軽四トラックを運転していた会社員・A容疑者49歳を自動車運転過失傷害の疑い現行犯逮捕しました。現場は片側1車線の直線道路で外灯はなく事故当時は日が落ちて暗かったとのことです。警察で事故の詳しい原因を調べています。

事故当日

18:20 事故発生

18:25 うちの妻が偶然現場を通りかかる。

18:30 仕事も終わり一息ついている時に…妻より私の携帯に電話がはいる。「奈那ちゃんが交通事故!!!ひとまず家の方向に帰っていて!」。詳細わからず。

18:40 2回目のTEL。「気をしっかりして聞いて。奈那ちゃん意識不明。気をつけて○○第一病院に直接来て!」「寧々ちゃん(中学1年生)にはまだ知らせないで。お母さんに来てもらうから」。「えー…」「奈那ちゃん、奈那ちゃん」と叫びながら病院へ車を走らせる。フロントガラスが涙で歪む。

19:00 ○○第一病院に到着。妻と連絡取れず、何処へ行けば良いのか…迷いながら2FのICUへ。妻と会い詳しい状況を聞く。

事故の概要:::自転車で宇佐高校からの帰り道、後ろから来た軽四トラックに追突され頭部を強打。その他はかすり傷程度で外傷はない。友達と一緒に2人で帰っていたらしい。近所のアパートに住む男性がテラスにいて、「ドーン」という大きな音で事故だと思い駆けつける。すでに近くの会社の方がいち早く救急車を呼んでくれていたとのこと。加害者は呆然と立ち竦むだけだった。

しばらくして医師会病院の勉強会に向かう妻が偶然に通りかかり事故を見つける。「あの制服は宇佐高校の1年生。あの自転車、あのカバン、見覚えがある。」「うちの娘だ!」「救急車呼んだー?」。救急車の到着が長く感じられ、妻がまた119番TEL。「もうすぐ着くと思いますと消防署」。駆けつけてくれた男性が奈那の異常に気づき、口に手を入れ舌を引き出すと、大量の吐血。妻が「窒息するので横にしてくださ~い」と叫ぶ。そうするうちにようやく救急車到着。看護師の妻は一緒に救急車に乗り込む。妻「◇◇医師会病院にお願いします」救急隊員「頭を打っていますので、脳外のある○○第一病院がいいと思います」。救急車の中で心配停止状態。心臓マッサージが施される。病院に着くとすぐに人工呼吸器装着。呼吸と心拍は保たれたが、意識は全くない。

病院1日目

どれくらいたった時か、説明のため医師に呼ばれた。「後頭葉に小さな出血。頭蓋底に小さな骨折。それより問題なのはびまん性脳挫傷。CT像で脳のしわが分かりにくくなっている。瞳孔散大、対光反射なし。大変厳しい状態です。脳死と言ってよい。脳が90%いや100%だめになっているかもしれない。しかし望みは捨てられません。たとえ1%の可能性だとしても。

私は全身の力が抜けてしまい立っていられず、私自身が点滴を受けることとなった。なぜこんな事に……車の中ではまだ可能性を信じていたが……希望が墜落した。こんな事って信じられない。夢じゃないのか。夢であって欲しい。この際も、妻は気丈に立ち向かっていた。

21:00頃だったろうか、いつまでも隠しておくわけにはいかないので、お母さんに連絡しネネちゃんを連れてきてもらう。ネネは状況がつかめず、ピンとこない様子。

その後、親族が集まり始める。医師より「会わせたい方がいましたら早く呼んであげて下さい」とのこと。どんどん希望の光が見えなくなる。私は点滴台を引きずりながら涙が止まらない。

初めてICUに入る事が許される。人工呼吸器など多くの機械につながれて生命を維持している状態。ICUで奈那の手を握り声をかける、「だめだ~、だめだー奈那ちゃん。だめだ、だめだ、だめだー奈那ちゃん。」手を握り叫び続ける。

その日、すぐにテレビが事故を伝えた。

高校の同級生が1名、面会に来たが、会わせられる状態ではなかったので、申し訳ないが帰ってもらった。奈那が中学校の時の担任の先生が駆けつけ、そして夜遅くまで病院にとどまってくれた。私の職場の理事長が来てくれた(彼はその後も告別式まで毎日足を運んでくれた)。彼に会った瞬間、私はトイレの前で泣き崩れた。誰かにすがらないと立っていられない。

妻は特別にICUにとどまることを許されていた。私は看護師に家族控え室に誘導されるが、不安でじっとしていることが出来ない。あてもなく暗い病院の廊下を彷徨う。医師より「今夜が山」といわれる。なんでこんなことになったのか。まさしく信じがたい時間である。

病院2日目

なんとか一晩乗り越えた。しかし依然意識は戻らない。脈は180台、血圧は安定している。家族の見守りが多く、いつまでもICUにいるわけにはいかないので、個室に移される。皆で取り囲み声をかける。「奈那ちゃん、奈那ちゃん、頑張ってー」。手を握っていると、ピクッ、ピクッと力が入る。「回復してる?」…現状を信じたくない。夢であって欲しい。

2日目の医師の説明。2回目のCT像は初日よりも脳浮腫が進み、悪化しているとのこと。これでもかと打ちのめされる。体は食べること、寝ることを要求しない。ただただ手を握り声をかけ続ける。そうしていないと不安で押しつぶされる。午後になって血圧が下がり始める。医師の言うとおりの進行。夕方には最高血圧が50台へ。依然脈は170~180.マラソンを走り続けている状態だ。

昼過ぎに、新聞を見た友達がお見舞いに来た。妻は「もう会えなくなるかもしれない」と思い会ってもらった。友人「みんなに伝えていいですか?」妻「いいよ。みんなに伝えてあげて」。この日の朝、宇佐高校では全校集会があり、奈那ちゃんの事故が伝えられた。

夕方になって、続々とお見舞いの方が押しかけた。高校生、中学同級生、ガールスカウトの仲間、そして私達の関係者も。病院の駐車場では自転車が400台。廊下には人が溢れ列をなした。病院にとっては前代未聞のお見舞い劇だった。みんな奈那ちゃんの手を握って話しかけてくれた。「頑張れ、奈那ちゃん」。みんな離れたくない様子でどんどん時間が過ぎていく。奈那ちゃんにこんなに友達がいたなんて知らなかった。こんなに人気者だったとは…私はある意味唖然としていた。

友達の列の中に1人、印象的な青年がいて、奈那ちゃんの手を取り泣いていた。どうも大切な友達らしい。妻が「奈那ちゃんのことスキだったの?」青年「いえ、あの、は~」その後、面会時間もお構いなく、日付が変わるまでお見舞いの列は続いた。友達が来てくれているときは、奈那の最高血圧は50を保っていた。

夜、妻は、寝なければならないと思うのだが、不安で寝れない状態。夜中の電話ボックスで泣き崩れる。私が支えてやらなければ…

病院3日目

早朝、最高血圧が30台となった。どんどん下がっていく。事故から私達の思考能力は停止しており、1秒先のことも考えられない。7:00頃だったろうか、再びあの好青年が、「落ち着かないので、学校に行くまでここに居させてください」と訪れた。純粋で優しい学生さんである。どうもお互いに好意を寄せていた様子。

その後、血圧は測定不能になった。かける声にも悲壮感が漂う。見守るしかできない私達。とうとう脈が下がり始めた。マラソンを走り続けた心臓が耐えられなくなってきているのだ。150-130-100.「もう頑張ってなんか言えない。奈那ちゃんは2日も良く頑張ったよ。だからみんなに会うことが出来た。。。もう苦しまないで欲しい。

90-80-70…。「あ~、もう止められない!!」お昼過ぎ12時17分、脈が70を切ったとき、突然、前触れもなく、奈那ちゃんの心臓はその動きを止めた。モニターの0の数字が赤く点滅した。私は「奈那ちゃん、パパがいつも横にいるから大丈夫だよ」と叫んだ。私が最後に用意していたセリフだった。

実質2日間の私達の戦いは幕を閉じた。私は心のドアがゆっくりと閉じていくのを感じた。

医師の確認後、霊安室へ。そこで警察の検死を受け、エンジェルケア。エンジェルケアには妻も参加した。その間も、退院し家に帰った後も、心配した友達が尋ねてきてくれた。

「奈那ちゃん、やっと家に帰ってきたね。」学校から帰宅中の惨事だったから、家に帰りたかったでしょう。布団に寝かされた奈那ちゃんは少し笑顔を浮かべた感じで、いつもの寝顔のまま幸せそうに眠っている。傷も無く、今にも起き上がりそうで…

妻はお参りの方に「ほら見て、いつもと同じ顔でしょう。わらってるでしょう。死んでるなんて思えないでしょう」と何度も何度も話していた。

私は奈那ちゃんの横で気絶するように眠った。

お通夜

夜が明けて次の日(10月19日)、午前中は葬儀社と打ち合わせ。何も分からなくても話は進んでいく。妻は「成人式もしてあげられなかったので、最高の式でお願いします。」と依頼。午後より親族が集まり始め午後4時に出棺。私は霊柩車の助手席に座りゆっくりと出発。ふと左に目をやると田んぼのあぜをキジが走っていた。めったに見かけることはないのだが、奈那ちゃんの旅立ちを見守ってくれたのか。

斎場は溢れんばかりの花で埋もれていた。祭壇には奈那ちゃんの遺影が大きく輝いていた。ロビーや階段の踊り場には奈那ちゃんの写真、絵、賞状等ふんだんに飾られ、本人の軌跡が表現されていた。あらためて並べてみると、こんなに多才だったんだって気づかされた。気づくのが遅すぎるよ!

午後7時からのお通夜だが1時間前くらいからお参りの方が見え始める。すると続々と絶え間なく想定を超えるお客さんが…会場に入りきれず、階段、ロビーに溢れる。結局700名を超えるお参り客があり、斎場としても異例の事態だったらしい。自分曰く、「私の葬式は寂しいもんだろうな!」私を超えることなんてできっこないと思ってた娘が、いつの間にか私を遥かに超えて人気者になっていたとは…

自分がどんなに小さな人間で、それに気づいていなかったか…

お通夜のお経が終わった時、奈那ちゃんがスキだった曲として流したのは、ア・イ・シ・テ・ル・のサイン (Dreams Come True)。今も、この曲がかかるとこの時の光景が思い出される。

みなさんを玄関で見送った後、親族の皆さんからずいぶん遅れて夜とぎに合流。坂を転がるようにトーンダウン。ひとまず何か食べなければ…いままで栄養ドリンクでつないできた体。そして妻もようやく眠りについた。

告別式

10月20日、朝起きた時、突然の右腰痛。覚えのある痛み。腎結石の発作で、丸くなって動けなくなる。よりによってこんな時に。なんとか△▽クリニックに行き痛み止めの注射を打ってもらう。その後すぐに痛みは消失した。

午後1時から告別式。葬儀社も,お通夜のときが想定外だったので、急遽会場を拡大し万全の体制をとる。案の定、お通夜を超える900名近くのお客さんが…やはり会場から溢れる。また、学校、病院、施設から多くの弔電も寄せられ、たくさんの方にお見送りしてもらった。

弔辞では、高校・中学の同級生が、奈那ちゃんの優しさ、明るさを涙ながらに語っていただいた。自分の娘ながら誇りに感じた。最後の見送りも、みんなが溢れんばかりのお花や折鶴をお棺に添えてくれた。皆泣いていた。本当に有り難う。

ここで、一旦、みんなとはお別れ。でもすぐにまた会えるから、それまでみんなを見ていてね。出発の時、みんな「はまさき!なな!」って叫んでくれたよ。

後日聞いた話しだが、17日のお見舞いのあと、高校ならびに中学校で多くの人が協力し、夜を徹して折鶴が折られたとのことだった。驚きと感謝の極みである。

霊柩車で20分くらい揺られて火葬場に到着。私達にも最後の時がやってきた。奈那を焼いてしまうなんて普通に出来ない。喪主だからと言って簡単にボタン押せないよ。「奈那ちゃんは本当にいい子だったんです。最後に奈那ちゃんの幸せを祈ってやってください。」とお願いし、残された家族3人でボタンを押す。涙も枯れるといいますが、なかなか涙は枯れないよ。集骨のとき、お骨が綺麗だった。陶器のような柔らかい光だった。

奈那のお骨を胸に抱き、その最後の暖かさを感じながら、再び斎場に戻って初七日。もう精も根も尽きていた。片づけを終えて帰路に着く。胸に遺骨をしっかり抱いて。


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