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集団の中に……

こんばんは。今日はとある語に関するところ。

昨日今日と特別支援教育についての集中講義を受けていました。
障がいの個人モデル(医療モデル)と社会モデルの話や、発達障害・学習障害などの話はこれまでに別の授業で聞いたことがあったのですが、イギリスにおける特別支援教育のあり方や、インクルージョンとインテグレーションの違い、教育のユニバーサルデザインなど、新しく学んだことも多く、色々考えさせられる授業でした。

その中で、一つどうしても気になってしまったことがあるのです。

ダウン症の人たちが、イギリスでどのように生活しているのかを取材した動画を見たんです。イギリスでは羊水検査が盛んでダウン症の疑いがあるとわかると中絶する割合も多いそうですが、一方でダウン症を持って生まれた人への支援が手厚いのだそうです。幼稚園の段階からダウン症であっても普通学級に入って生活し、自立支援も豊富(例えば、ダウン症の人が一人暮らしをするときに家賃が公費で出る上に、週4回支援員が訪問して生活スキルのブラッシュアップを図る)とのこと。

その時の感想で、「日本と違って、ダウン症の人たちが社会に溶け込んでいるのがすごいと思った」というのがありました。ふと、「溶け込む」なんだなあと思ってしまったのです。

例えば、転校生はクラスに「馴染む」だと思うんです。「溶け込む」だとなんか没個性的な変化を経ているように感じてしまいます。中学校の文化祭で、借り物競走をしたのですが、生徒会顧問だった先生がその借り物となるようにして、中学校のジャージを着てもらって見つかりにくくする(事実見つからなかった)ということがありました。この時の先生はまさしく生徒に「溶け込んでいた」と思うのです。

要は、何かしら「異質さ」をもったものが、個人の特徴を消すことによって周りと共存できる状態が「溶け込む」だという意識です。

自分の言語感に照らすと、ダウン症の方が社会に「溶け込んでいる」とき、社会においてダウン症が本人の特性の中で「抑制されるべきもの」という認識なのかなと思ったのでした。もちろん、私は当事者ではないため、当事者の方が実際にそのような認識であるのであれば、私の無理解ゆえなので誤りです。

しかし、仮に「インクルーシブな空間」を目指すのであれば、障がい者や困難を抱えた人が「当たり前にいる」状況(つまり、障がい者が周縁化されたり「溶け込む」ことを要請されたりしない状況)である必要があります。実際にイギリスの学校や、ダウン症の方が働くスーパーマーケットの映像ではそうでした。ですが、今の日本(少なくとも「溶け込む」という感想を抱いた学生の周囲)ではそうではないのでしょう。

かくいう私だって、身の回りにいる人のうち誰が社会制度の不備などから困難を抱えていて、誰がそうでないのか、わかりません。もしかしたら無意識のうちに何かしらのバイアスを持って環境づくりをしてしまっているかもしれません。ただ、「溶け込む」という表現にもった違和感を持ち続けることは必要なのかなと思いました。もう少しいろいろ調べたり考えたりしてみます。

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