【日記】何はともあれ運動不足はどうにかすべきだと思いました

ある夏日の午前10時42分、私は大人になってから初めてかもしれない全力疾走をした。
家から駅までの歩いて20分とかからない道のりだったけど、走るとなるとかなり疲れる。そもそも1分と走り続けることすら厳しい。息は上がるしお腹は痛い。これは寄る年波というよりはシンプルな運動不足を感じた。そんな運動不足に加えて左手には旅行用のコロコロ鞄、さらには30度近い気温と肉体にはかなり大きな負担となった。

なんでそんな無茶をしたかというと、出発予定の電車に乗り遅れそうだったから。実際その次の次の次の次の電車でも余裕で間に合うくらいではあったんだけど、何となく予定と異なる結果になるのが落ち着かないので走った。結果、汗だくになり横っ腹が痛くなり電車には間に合わなかった。別に次の電車でも十分に間に合うので、ひと休みしようと駅前のコンビニでカルピスを買って日陰で飲んだ。

茹だるような暑さとカルピスの相性の良さたるや。カルピスって夏のイメージが強い。夏休み、親が買ってきてくれたカルピスをケチって氷や水多めで作ってうっすい汁を量産していた記憶が蘇る。実際実家でカルピスが出たことなんてないけど。麦茶で縁側とスイカを思い出す感覚に似ている。もちろんそんな記憶もない。

制汗シートで粗方汗を拭いて、日焼け止めを塗り直してから私は当初の予定から2本遅れの電車に乗って空港へ向かった。一回休んじゃうと動きたくなくて。

私は現住所から実家がかなり離れているので、割と飛行機には乗る方だと思う。なのに。いつまで経っても空港って慣れない。緊張がすごい。そのくせお店とかに対するわくわくは次第に失われているので、割に合わないと思っている。

今回も例に漏れず帰省のため飛行機に乗ったわけだが、私は割と飛行機に乗るのが好きらしいと初めて気付いた。

まず「いいな」と思ったのは添乗員さんの離陸時のお決まりのやつ。動きがきびきびしていてすごいのはもちろん、添乗員さん全員の動きがぴったりシンクロしているので見ごたえがある。個人的には救命胴衣みたいなのに息を吹き込む動きがなんか好き。

あとは飛行機が走り出す前の溜め、それからふわっと浮いて、ついでに内臓がもわわとする感覚。特に最後のは不快に近いんだけど、「やっぱり飛行機といえばこれっしょ」みたいな感じもある。

飛行機といえば、事故ったらほぼ確実に死ぬことで有名ですが。私は根っからのビビりなので、飛行機に乗る度に死を意識している。
昔は死ぬことを現実的に捉えることができていなくて、成長すると共に死を恐れるようになった。そして大人になって、亡くなる人たちを何人も見てきて、私は死を徐々に受け入れつつあるような気がしている。もちろん死ぬなんて死ぬほど嫌だし進んで死にたいわけではない。けど、もしこの瞬間に私の人生が幕を閉じても「仕方ないか」と思ってしまう。生きる上での煩わしさみたいなものから解放されるのも、寂しいようで若干の安心もある。

以前、祖母の葬儀のときにぽつりと母が祖母に言った

「これで死ぬのが怖くないよ。待っててね」

という言葉が今でも鮮明に思い出せる。私はこれを聞いてなるほどと思った。そういう考え方もあるんだって。

私は輪廻転生があることを信じているわけではない(もちろんそれと同じくらい輪廻転生がないことも信じてはいません)し、母もそうだと思う。けど、人はこうしてこの世を離れる準備をしていくんだな、と納得ができたし、それ以来私も少しずつ死というもの理解し始めている気がする。

それは結局、いずれ死に向かうことへの正当な理由付けをしているだけなのかもしれない。でも、案外「死」ってそんなものでもいいのかも。

こうしてすぐ死の話すんの、年取ったなと思う。

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