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いる

 仕事から帰ると、その女はいた。
 居室の真ん中に座り込み、胸元まである髪を耳にかけ一心不乱にスマホを触っている。画面に触れている親指だけが忙しなく動いていた。
 俺が何も言えずに立ち尽くしていると、そいつは立ち上がり、
「おかえり、まってたよ」
と言った。薄暗くて顔はよく見えなかったが、声のトーンから満面の笑みを浮かべているのがわかる。
 (なんで?確かに鍵は閉めていたはずなのに)
 俺の困惑を余所に、そいつは俺をすり抜け廊下へ出ていった。部屋の中央には長い髪の毛が落ちている。あいつの髪だろうか。
「ゆうくーん、ごはん作ってあげるよ。何が食べたい?」
 キッチンから声がする。
「えー冷蔵庫空っぽじゃん、買い出し行かないと」
 こいつは、
「ゆうくんも一緒に行こうよー」
 誰だ?
「ゆうくんってばぁ」
 猫撫で声に鳥肌が立った。こいつは一体何だ?何故俺の部屋にいて俺の名前を知っているんだ?気味が悪い。俺は震える手でキッチンの扉を開けた。
 「……え?」
 そこには誰もいなかった。薄暗いキッチンを、開け放たれた冷蔵庫から漏れる光がぼんやりと照らしている。
 俺は恐る恐る電気を点けた。やはり誰もいない。冷蔵庫を閉め、そっと周りを見渡す。
 (気のせいか?今までの、全部?)
 部屋は、やけに静まり返っている。
 もやもやしたものが拭い切れないが、現にここには誰もいない。警戒心が徐々に弛緩し、安心感が浮かんで来た。連日仕事続きで疲れていたし、俺は何度か精神科にお世話になっている。そろそろ俺の精神状態は限界なのかもしれない。
 (統合失調症は幻聴が多いって、先生も言ってたな)
 ふぅ、と息をつくと、少し冷静になった。万が一誰かが侵入していたら怖い。今日は護身用に包丁を持っていよう。一応。俺は包丁が入っている一番下の引き出しを開ける。

「ゆうくん」

 そこには、そいつが満面の笑みで詰まって・・・・いた。

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