日は落ちる
社会人になって、初めての夏休みが終わろうとしている。夏の最終日、カレンダー上では平日だ。でも、世間の大体は休日だってこと、新宿の人の多さではっきりと分かった。
私の夏休みは、会社の同期と、大学時代の同期と、1人の時間で構成された。最終日、喫茶店で1人夏休みを振り返った時のことを記録しようと思う。
付き合いの長さがまるで違う2組の友人たちと過ごしてみて、感じたのは視点の位置だった。
初日、会社の同期と過ごした江の島での1日。
焦点が合ったのは、今と、これからの話だ。
集まったのは、部署も職種も違う男女4人。繋がりのきっかけは、私の紹介。違うコミュニティにいた友達を、名字が同じとか、アイツの好みそうだからとかで繋げた(結局、友人止まりになったのだけれど)。
江ノ島の坂なり階段なりを上り下りして、時々買い食いをして、話していたこと。
先輩がどうで、今はこんな仕事をしていて、会社のあの部分に違和感を覚えていて、でも自分は今後こうしたくて…。今度、やっと一人暮らしをするんだよね。そしたらアレ買っておいた方がいいよ。遊びに行くね。
苦しみも、楽しさも、同じ会社だからこそ明け透けに話せることがある。無理に美化しなくてもいい。それが心地よかった。将来を考えて、自分がどうしたいかを話せる。それでいて、背伸びせず、無鉄砲に夜の海へスニーカーのまま駆け出していける、素直な幼さを良しとできる関係性が心地よいと思った。実際、4人のうち1人は浪人で1個上、院卒で2個上というバグなのだけれど。
一方、大学時代の同期たち。約10名。一番久しい人で1年以上ぶりだったが、会ってみての第一印象は「みんな変わらないな」だった。昔のようにふざけて、くだらないノリを返し合って、腹がよじれるほどに笑った。
でも、ちゃんと話すと、変化を感じた。当たり前だ。社会人になって半年目前。見てきた世界は、順応しようとしてきた過程は、人それぞれ違うのだから。これまでの期間で形成されてきた価値観を通した見方は、各々の「今」で違いが表れた。
どんなに昔のように過ごしたって、なぞっているそれは半年前なのだ。変わらないと信じたかった対象は、自分もだし、自分の目を通したみんなだったけれど。同じだねって安心したかっただけだと気づいた。「変わらない」と初めに感じたのはあくまで各々が持つ手札のうちの1枚で、今の私たちを主として占めるのは全く違う。「昔」になりつつあるのだ。
ショッピングモールに会ったお店がいつの間にか閉まっていて、「あれ、なんのお店が入っていたっけ」となる時よりも、行きつけのスーパーで冷凍食品の位置が変わっているときの方が、はっきりと差異が分かる。そんな風に、微妙な違いの方が際立ってしまうのだ。でも、変化は不可抗力で、無論私が止めることも、誰にも止める権利はない。
くだらない話をして、大笑いをして、写真を撮って、時を止めようとしていたのだと思う。この時間がずっと続けばいいのにと思っていた。そんなの、無理だと分かっているのに。
変化は続く。私も変わっていく。こんなの、小中高と体験してきたはずなのに。例外だと思いたかったのだと思う。
変わっていく私たちに、それぞれの幸が訪れますように。一瞬でも交わることができたあの日々を、大事にできてよかった。もう、そっとしまっておこうと思う。壊れないように、時々思いだしたりして、光を失わないように。
どんなに長くなっても、日は落ちる。夏が終わって、秋が来て、冬が来て、また春を迎える。振り返っても戻れないのだから、存分に振り返りながら、明日に進もうと思う。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?