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「食べる」
何歳の誕生日だったかは覚えていない。住んでいた場所を考えると、3歳から5歳くらいの間の出来事だと思う。
母に切り分けられたケーキが目の前に置かれる。
上に乗っていた苺を咀嚼ながら、私は父と母にの様子を窺っていた。2人が私のことをちゃんと見ているかを確認しておく必要があったから。
ケーキの入っていた箱を潰したり、紅茶をカップに注ぎ足したりしていた2人が私の方を見た。
今だ、そう思った私は、テーブルに両手をついて、ケーキに真上からかぶりついて見せた。顔中をクリーム塗れにして。
すると2人は笑って言うのだ。
「そんなに急いで食べなくても取らないよ」
「ワンちゃんみたいだよ」
「顔中べとべとじゃないか」
私は取られると思って慌てて食べたわけでもないし、こんな食べ方をしたら行儀が悪いことも分かっていた。
私がケーキにはしゃいでいること、口いっぱいに頬張っていることが父と母を喜ばせることを知っていた。
私にとって食べることはショーだった。
別に食べることが嫌いだったわけではないけれど、物心ついた頃には自分が物を食べている時に両親がどんな顔をしているかを気にするようになっていた。
身体の弱かった私のせいで、両親はよく喧嘩をしていた。
通院や入院を繰り返す私を巡って、父は母を責めたし、母はそんな父を軽蔑していた。私は第一子だったし、2人ともぎりぎりまで張り詰めきっていた。
でもそれだけ2人とも私の命に対して切実だった。生きていてほしい、これからの未来を支えてあげたいと一生懸命だった。私は愛されていた。
だけど小さくて無力だった私はそんなことを理解できるわけもなく、家族という小さな世界の中の癌である自分をただただ許せなかった。
父が声を張り上げ、母が泣いていたリビングの隣の部屋で、私は天井の木面を見つめながらひたすら一人で謝っていた。
また熱を出してごめんなさい。
弱っちい身体でごめんなさい。
どんなに謝っても熱は下げられなかったし、咳は止められなかった。そしてやっと治ってもまたすぐ寝込むことになってしまった。
点滴が落ちるのを眺めながら涙が止まらなかったのは、針を刺された痛みからだと誤魔化していたけど、本当は悔しかったからだった。
普段は優しい父が怒鳴り散らすのも、いつも私を守ってくれる母が苦しんでいるのも、自分のせいであることが悲しかった。
そんな私が唯一両親を喜ばせることができるのが、食べることだった。
少食だった私がたくさん食べると喜んでくれた。
両親が私の好物だと思っているものを前にはしゃいで見せたら、満足そうに笑ってくれた。
元気いっぱい無邪気に食べることは、唯一の私の武器だった。
だから私は誕生日ケーキに顔から突っ込んで見せた。
大きな喧嘩の次の日に行ったバイキングでは、カニのお寿司を吐くまで食べ続けた。
私は舌が肥えていたのか、バイキングのお寿司は全然美味しいと思えなかった。
でも、「そこにカニがあるよ」と笑顔で教えてくれた父の期待を裏切るわけにはいかない。お皿に5つも取ってもらい、おかわりもした。
生臭くて、シャリがべちゃべちゃで、醤油の味しかしないカニのお寿司。気分が悪いのを隠して食べ続けた。
帰りに駐車場で歩けなくなり、ゲロを吐いてしまった私の背中をさすってくれた母のサマーニットが、若草色だったことを今でも覚えている。
たくさん食べる私を見て笑っていた母が、ゲロに塗れた私をどんな顔で見ているのかを確かめるのが怖くて、顔を上げられなかったから。
私のこのショーは、中学生くらいまで続いた。
勉強をして、賢くなることで両親を喜ばせることを身につけるまで、私は食べ続けた。
今の私は、食べることが大好きだ。
美味しいものを食べるためにお金や時間を使うことは、至高の娯楽だと思う。
30分以上並んだパンケーキを、10分足らずで完食しちゃう勿体なさにわくわくする。
昼ご飯を食べる時間もなく働いた日、帰り道にかき込む牛丼の満足感はこの上ない。
夜中に罪悪感に苛まれながら食べるマックポテトはSF映画と相性抜群で、最高のご褒美。
食べることを楽しめるようになったことは、私にとって成長の証で、自分の人生を自分で歩き出したことの証明だ。
「食べることは生きること」
自分を作るものを自分で選ぶ。嫌なものを身体に入れることを拒む。
だから私は、今日も私のために食べる。
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