見出し画像

全く初見でシン・エヴァを観た話

去年の3月の始めの頃、友人と『シン・エヴァンゲリオン劇場版:‖』を観た。
会社の福利厚生で、映画のタダ券をもらったのだが、この時期特に観たい映画もなく、熱狂していた世間の波に乗ってみようと思って決めただけだった(その証拠に、私たちはあの時シンエヴァにするか、無限列車に乗るかの話し合いを30分ほど繰り広げた)。

友人はテレビアニメシリーズ観ていたらしいが、私はテレビアニメも映画も、1回も観たことがない状態。
カラオケビデオで流れる絵、パロディに使われるような台詞やキャラクターの名前は知っている程度の、設定もストーリーも知識ゼロ。

正直、何にも分からなかった。
前作からブランクが空いていたからか、お話を終えるためか、色々と言葉にして説明をしてくれているのは分かったけれど、出てくる言葉が知らないし長いカタカナ語ばかりで、あまり追えなかった。
音楽はとてもかっこよかったし、背景が細部まで美しく描かれて感動したし、戦闘シーンなどは観たことないような動きをしていて派手だったけれど、それだけで映画を楽しめるほどの知識は私にはない。

だけれど、不思議なことに、2時間半を超える映画を、私はずっと観ていられたのだ。
飽きず、集中力を絶やさず、ずっと観ていた。

そして色んなことを考えた。
細かいところは分からないけれど、作品の根幹に流れているもの、物語の終わりの世界について、考えた。
少なくともあの日一日は、眠りにつくまでエヴァのことを考えていたし、今でも思い出す。

去年、私は色んなアニメを観たけれど、シンエヴァは大きな転機だったように思う。
正しい解釈ではないのだろうけれど、何も知らないなりに私が作品から感じたことをここにまとめておきたい。
『シン・エヴァンゲリオン劇場版:‖』から得たことを、私はきっとこれからも何度も思い出すし、何度も考えるだろうと思う。


1.碇ゲンドウ/甘ったれんな、ガキが

映画を観終えた後、どうだった?と聞いてくれた友人に対して私の口をついて出たのは、碇ゲンドウに対する「甘ったれんな、ガキが」、「いつまでそこに居るつもりだ」だった。
一度言葉にして吐き出すと、それは自分が思っている以上に強い感情だった。
同属嫌悪のような、共感性羞恥のような、そんな気持ちだった。
大人の形をとった頭でっかちな子どもが、子どもを持ったらそりゃ大変でしょうね、って。
毒づきたくて堪らなかった。

純粋な人なのだとは思う。
自分の大切な人にもう一度会うために、人間を捨てて、今目の前にある世界をぶっ壊してしまおうとするのだから。
だけれど、私が終始思っていたのは、お前が変わらないと何も変わらないよ?ということだった。
難しいことをごちゃごちゃ言ってたけれど、創り変えるべきは世界じゃなくて、自分自身だと思う。

ユイさんを失ったのも、取り戻せなかったのも、シンジと向き合うことができなかったのも、ゲンドウが一人で自分の殻に立てこもる子どもだからに思えてならなかった。

自分の孤独も生き辛さも、自分のせいじゃないか。

自分の殻から飛び出す、何かに依存せずに意思を持って人生の責任を負う、それなくして大人にはなれない。
人として知恵を持ち、力を持ったなら、それを行使する意思と責任を持たなければならない。
世界と戦おう、運命に抗おうと言うのなら、人であることを捨てるなんてテキトーなことするな。人として戦って、傷付いて、苦しんで、ちゃんと死ね。
自分の人生も自分で背負えないようなガキが、生意気言ってんじゃないよ。


2.圧倒的な情報量で創られる世界/熱源にある「思い」

調べれば調べるほど、深追いすればするほど、広がっていく世界。虚構と現実の連環。
理解が及ばないかもしれない、解ききれないかもしれないと思わされる情報量や難解さ。

映画を観てから、あまりにも分からないことが多すぎて、劇場版の前作をすべて観た。庵野秀明展にも行ってみた。
それでもやっぱり。私は何一つ分からなかった。

でも、だからこそ、心が感じたものや頭で考えたものの中に、自分にしか知り得なかった世界の秘密やようなものがあるような気持ちになる。
自分だけのエヴァがある。
特別ではない、何者でもない、宙ぶらりんな自分を抱えた思春期に出会っていたら、私も夢中になっていたかもしれない。
ここに、私だけが知っている、世界の秘密がありますと、叫んでいたかもしれない。


3.碇シンジという人/「何でみんな、こんなに優しいんだよっ…!」

得体の知れないものと、何が目的なのかもよく分からず、信用ならない大人たちに言われるがまま、戦う空虚さ。
それに意味を見出そうとして深みにはまって動けなくなる、抗おうとして傷つく痛み。
命を賭ける、世界の命運を背負うというスケールの大きすぎる話にはなっているけど、根幹にあるのは思春期〜青年期と呼ばれる時間の生きずらさではないかと思った。
子どもと言えるほど純新無垢ではいられないけど、自立して生きられるわけではないから大人とは決して言えない時間。

何より印象的だったのが、主人公・碇シンジくんの「何でみんな、こんなに優しいんだよっ…!」という、涙ながらの叫びだった。
自己肯定感ゼロの状態で向けられる愛情や期待への絶望と嫌悪。何者にもなれない、何事も成し遂げられていないのに、そんな自分を肯定する言葉が投げかけられたら、きっと拒絶したくなる。

果てを感じさせない難解さと、自分の物語として深く刺さる共感性が1つの作品に収斂している。
自分だけの福音のようなこの作品が、時間だけは無限にある(むしろ時間しか持てるものない)思春期〜青年期の人の心を掴んで離さなかったのであろうと感じた。


4.物語を終わらせる誠実さ/大人になること

と、何も知らずに観た人間に簡単に感想を持たせたり、考察させたりすることが、ずっとエヴァを大事にしてきた人には嫌だったのではないかなとも思った。
私だけのエヴァだったはずなのに、随分と優しく、観る側歩み寄って大衆化してしまった。
私の特別な物語ではなくなってしまった。

でも、こうした完結を迎えたことに、作品を生み出し、人へ届けることへの作り手側の誠実さを私は感じた。
特別ではない人たちを、特別ではない世界へ帰さなければ、現実世界を歩かせなければ、これだけ長い間人の心を掴んできてしまった作品は終われないのではないだろう。

年上の綺麗なお姉さんに「君も可愛いよ」なんてさらっと言えてしまう、いわばありきたりな大人。
でも、もう周りに振り回されるのではなく、自分の足で立った大人に成長させることが、何よりも優しくて、誠実な終わりなのだと思う。

大人になるということは、未知のもの、不確定要素、難解さを楽しむ余地も余裕もなくなることかもしれない。
長く生きていれば、それだけ知っていることも考えられることも自ずと増えていく。
そうすると、本当に全くの「未知のもの」・「不確定要素」とは出会わなくなってしまう(あるいは、意識的にも、無意識的にも、そういった所から自分を遠ざけてしまう)。
また、一つの謎に対して、自分の持てる何もかもを注いで、納得のいく答えが出るまで考え尽くすような生き方は、それこそ特別な人間にならないと難しくなる。
多くの大人たちは、ただ生活を回すことだけで精一杯で、何をしているわけでもないのに、なんだか忙しい。
分からないことに時間を投資する余裕がなく、分かることだけを忙しなく処理していく。
それは、きっとつまらないことなのだと思う。
子どもの頃の私が今の私を見たら、多少なりともがっかりするだろう。

だけど、自分の足で立てること、意思を持った行動の末に目の届く範囲の世界が明るいこと、大切な人が笑っていることは、絶対に幸福なことだ。素晴らしいことだ。
シンジくんは、自分の意思で世界を創り変えた。
「エヴァがなくてもいい世界」、自分や周りの大切な人が「運命を仕組まれた」特別な子どもではなくなった世界に。
誰のせいでもない、自分の意思で、自分の責任で、世界と繋がり生きていくことを選んで、シンジくんは大人になった。

普通の世界で、普通に歳を重ねて、普通に生きていく。
圧倒的な絶望の中で戦い続けて、命懸けで掴み取った普通の現実の中で、ただ生きていくことの尊さ。
シン・エヴァンゲリオンは、特別ではない自分を、世界を、責任をもって愛することを教えてくれているように私は感じた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?