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「過去は変えられる」ということ

「人は、変えられるのは未来だけだと思い込んでる。だけど、実際は、未来は常に過去を変えてるんです。変えられるとも言えるし、変わってしまうとも言える。過去は、それくらい繊細で、感じやすいものじゃないですか?」
平野啓一郎『マチネの終わりに』より、主人公の蒔野の台詞です。

この台詞が出てくる流れや、この物語の主題としては、とてもポジティブな意味を持つ言葉ですが、私はこの言葉をとても恐ろしく感じました。

アクシデントや不確定要素はあるにしても、未来が変わっていくことは、私の意思による選択です。
だけど、過去が変わることは、(忘却も含めて)ほとんどが無意識下で起こることだと思うんです。
私が見るもの、聴くもの、感じるものは、その瞬間を過ぎてしまったらあっという間に過去になって、忘れてしまったり変質してしまったりする。
当たり前のことだけれど、「今」を留めておくことができないことがひどく心細く感じられるのです。

私を私たらしめているものは、経験だと考えています。
美しい言葉を読んだり、美味しいものを食べたり、心が沸き立つような音楽に触れたり、どうしようもないくらい誰かを好きになって泣いたり。
そういった経験の積み重なりが私の意識や感性になり、世界を見る目になり、意思決定をさせる。
今までの意思決定の帰着が私。
私が私として生きた経験がなければ、私は自分が何者かを語ることはできません。

でも、その経験もまた、「そういうことがあった」「そう思った」という記憶であり、過去です。
私が自分のアイデンティティだと思っているものは、秒針が進む度に失われてしまう、移ろいでしまうものなのです。

記憶が忘却、変容することは人生にとっては代謝のようなもので、必要なことかもしれません。
本当に大切なものだけが残る、忘れてしまうのは不要なものだから、という考え方もあるでしょう。

でも、私がこうして自分の置き場の無さに不安を感じた午前4時19分の瞬間は不要なのでしょうか。
目の奥が痛くて、不必要に聴覚が研ぎ澄まされて、だけど意識だけは宙に浮かんだようで。
この感覚は人生において、私という人間にとって不要なものなのでしょうか。

私には今この瞬間の感覚が、昼ごろ目覚めた時に、「何となくそんなことを朝方考えていたなー」なんて曖昧な記憶にしていいものじゃないように思えるんです。


私の目下の目標は、「自信を持って自分の人生の舵取りをすること」です。
私はこういう人間だと自信を持ちたい、意思決定する強さを持ちたい。
そのためには、私がどんな人間なのかを知らなくてはなりません。

自分が何を感じていたのか、何を考えていたのか、残しておきたい。
常に変わってしまう過去を、私の一部を、拾い集めていく必要がある。

だから私は文章を書くことにしました。
これはただの備忘録、私語りです。
この決意が、駆り立てられた感情が、未来の私の足場になってくれますように。

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